くまだ 裕通
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第97回
2013年11月13日 放送

自民党 くまだ 裕通 衆議院議員

(以下、動画より文字おこし)

自民党 愛知1区 1期目

(ご紹介頂いた宮内議員とは?)―仲良くして頂いている同期の仲間。言っても良いと思うが、その前に出ていた星野先生と宮内先生と自分と一緒に有志の同期の会を作った。「無名の会」という…皆無名なので。(地元に帰ればそうではないが中央に来ると)まだまだ無名。38人。(当番組にご出演頂いた議員は)―議席が隣同士で、星野、宮内、一人挟んで自分。(次にご紹介の議員は)―自分の左の人。声をかけるのだったらそういう感じの方が良いかなと思って、友達の輪で。(河村たかしさんの地元で、その後に出た篠田陽介さんという自民党のかたがこの番組に出てくれた)―みんなの党に行って、はっきり知らないが政治の道を離れられたと風の噂で聞いた。選挙は一生懸命応援させて頂いた。

●幸せ度数年表

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第97回熊田裕通

1964年 名古屋生まれ。ごくごく平凡な青年だったと思う。大学は横浜の神奈川大学。海部先生の秘書に入れて頂いた(23歳)。第76代・第77代(の総理大臣の秘書になった)。子供の頃から政治の世界にいきたいという夢があった。(家庭は)畑違いで、道路の建設業だった。海部先生は父親がずっと支援していて、隣の一宮という選挙区だったのでそういうご縁で。自分が子供の時から「いつか海部先生の秘書になるんだ」と言っていたらしい。選挙の時何回か小学校時代に先生の処へ連れて行って貰って親が「先生、こいつ、先生の秘書になりたいと言っている」と言ったら「おーそうかそうか」と。高校、大学に行っても変わらなくて、大学に入った時に海部先生の処にお邪魔して「先生、大学入ったので卒業したら」と…(大学は)4年あるので先生はまさか4年の後にと思われたのか知らないが。(海部先生は)文部大臣を終わってまだ力を蓄えられていた時。秘書をやらせて頂いて1年半で内閣総理大臣になられた。(短命ではなかった?)―2年3ヵ月。先生の秘書の間は、今はもう無くなってしまったが総理大臣の官邸・公邸…官邸は仕事をする処で公邸は住む処。幽霊が出ると言われているのが昔の官邸。今、官邸が建っている所に昔の公邸があってそこで寝食をともに生活をしていた。昔の古い公邸にずっと先生ご夫妻と一緒に生活をしていた。とびきりの思い出?…大きな世界で湾岸戦争があったり、政治改革の色々な話があった。丁度海部内閣の時に湾岸戦争、PKO(の問題)もあった。傍に居させて頂いて、官邸で動きがある訳で、公邸にいる首相は夜も朝もお客さんがひっきりなしに来て、とにかく総理大臣というのは忙しいんだなと思った。外で食べられる時はあるが殆ど公邸のほうで、紹介して頂いたコックさんがなかなか腕の良いかただったので、朝と夜は時間があればだいたい一緒にご飯を食べさせて頂いていた。(小沢一郎さんが)幹事長の時に党の総裁だった。(小沢さんの思い出は)―あまりにも大き過ぎるかた。40代で自民党の幹事長をやっていた。油ギッシュだったかも知れない(笑)。(公邸の中では)―ざっくばらん、普通の人。(声を荒げる様な事は?)―そういう事は無い。お酒を飲まれない。食事をする場所は別にあるので、食事をされると総理ご夫妻は奥へ入られるし、自分の時間はそれから自由…ではない(笑)。遊びに行かない。先生が総理を終えてしばらく秘書生活を続けて身体の疲れと共に下降線(↘)。(総理を辞めた時は)総辞職された。(何か問題はあったか?)―無い。とにかく終わって夢の様なものが終わったという感じ。色々な事を経験させて頂いて、それが終わって荷物をまとめて先生は自宅、自分は議員会館に帰った。(県議選に当選は)―周りからもチャンスを頂いたし、自分からも。先生の事務所を辞めたのは20代で、1年ちょっとかけて県議選に向かった。(落選経験は)―無い。苦労が足りないかも知れない。(↗)最初の30歳の時はトップで当選させて頂いた。2回目の選挙はやはり厳しいもので、落選はしていないが2番目になってしまった(↘↘)それだけの事。前に2位だったかたがそこで1位を取り返されたが、長老のかたで長年経験のあるかただった。(県議会議員の思い出は)―ただひたすら1期2期3期4期と重ねさせて貰って経験を踏ませて貰ったという事。2期目はそういう事だったが、これは奮起しなくてはいけないという事で3回目はもう一回トップに返り咲きさせて頂いて(↗↗)、4回目は無投票だった。(県議は)―5期。これは本当に地元の皆さんのお陰でやらせて貰った。(それで衆議院に出た?)―そう簡単に決められる話ではない。さっき話にあったかた(篠田陽介さん)―公募で選ばれて北海道から来られたという事で、彼もそういう状況だったので、5回の県議の後はいよいよ衆議院の選挙だぞという雰囲気の中で、公募で選ぶという事が自分の中でも地元の県議会の先生の中でも「いささかそれはどうだ?」という雰囲気もあって、やはり地元に根付いた者が志を立てなければいけないのではないかと、そういう気持ちになった。(篠田さんは辞めてしまった)。(篠田さんがみんなの党に行ったのは?)―どういう考え方だったのか全く分からない。彼が(公認)になられた時は、まず自分はもうないなという気持ちだった。それは考えてはいけないと思った。せっかく北海道から来て志を立てて貰ったので、最後までやるなら支えなくてはという気持ちはあった。落下傘といえば落下傘。(自分は)どこにも行けない、もう家を建ててしまった。(永田町の1年は?)―あっという間。よく聞かれる話だが「先生の秘書をやっていたから慣れているよね?」と言われるが、秘書でやらせて頂くのと、自分自身が議員会館に名前を付けて部屋を頂けるというのは気持ちが全然違う。責任が重いというか。(どんな政策をやっていきたいか?)―選挙の時も話していたが、教育を中心にやっていきたいと思っている。教育というのは「人づくり」。今から手を打っていかなくてはいけない事があると思う。時間がかかるだけに今からやるべき事を少しずつ。すぐ効く薬は無いし「人」なので、価値観も夫々あるので少しずつ今できるものをやらなくてはいけない。あまり言ってはいけないかも知れないが、戦後の在り方というのがいささかどうかな、という思いがあって、戦前を美化するというか、戦前が全て良いとは思わないが、日本人が歴史を綿々と繋いで来たものを終戦で何か断ち切れた感じ。忘れてはいけないものをあの時に置いて来た様な感じがするので、日本人の良さ、より良いところを(取り戻したい)。自民党も教育再生本部で…自虐的歴史観という一言で片付く一番大事なところだと思うが、日本が日本人として今の子供たちにお爺ちゃんお婆ちゃん、もっと前の先人たちが取り組んできた事全てではないが、良くないものだと言う戦後の教育で本当に子供たちがこれから世界に向かって誇りを持てる、そんな教育をやらなくてはいけないのではないか。子供が大きくなって先生になるし親にもなるし、親御さんつかまえて「お父さんお母さんそれはダメだよ」と言ったらこちらがどつかれてしまうので。(学校の先生のほうが自民党の話を聴いてくれない人が多い)―だからと言って諦めてはいけない、子供たちにとっては先生だから。そういう人を育てていきたい。小学校の先生でクラスをまとめてやっている先生がいて凄く好きだった。後で大きくなって聞いたらその人はやはり(共産党)。(子供にとっては)素晴らしい…まとめてしまう。まだ隔たりがあるがしっかり頑張る。

●最近の政治トピックス

今日文部科学委員会で公立高校の無償化の改正、就学支援金の改正が通った。文部科学委員会が通ったので今度は本会議にかけて参議院に送る。全ての人が無償化されていたものを所得制限をつけて低額のかたから高額のかたまで線が一本引かれていたものを、低額の人により良い形にのせて、限られた財源の中で、プラス給付型の奨学金を低額のかたに出そうという案。(民主党との違いは?)―所得制限は無いし、元々無料だったかた達がいるわけで皆無料になったからその人たちは恩恵があるかと言ったら元々無料だったかた達には何も恩恵が無かった。それを上乗せをしていくという、分かり易く言うとそういう事。奨学金は返さなくてはいけない「貸与」だが給付型にしていこうという事。低額の人たちにより厚く、申し訳ないが高額の人には負担をして頂くという事。(高額で)―910万。それが議論になった。これが多いか少ないかで野党の皆さんからそういう議論が沢山出た。ただ限られた枠内の財源で、その中で積み木の形をより良い形にしようとい
う考え方。野党の皆さんは、今ある中で「他所からもってきて手当をするという考え方…教育の場所に所得の制限を入れるのはおかしいという。元々義務教育の中にはあるのでそこのところは野党の皆さんとは折り合いがつかなかったというところ。「公立高校の無償化と就学支援金の改正」。(就学支援金が奨学金か?)―奨学金ではない。公立を無償化したが為に私学にもお金を入れていたのが就学支援金。(反対したのは)―共産、生活、民主。自民、公明、日本維新の会、みんなの党もたしか賛成だったと思う。(そういった法案は早い)―有難うございます。パッと審議をやれと言われる。今回は非常に短い会期だが、物凄く丁寧に、と思っている。野党の皆さんはどう思っているか知らないが我々は丁寧にやっていると思う。「特定秘密保護法案」とか「NSC」とかそちらの委員会は相当な議論を重ねてやっている。連日夕方まで長くやっている。星野さんが入っている。ずっと長く議論しているはず、大事な事なので。(スピード感がある)―有難うございます。頑張ります。

●今だから言えるあの日のあの出来事

総理の秘書をやらせて頂いた時の話。総理ご夫妻は夜早くお休みになられ、後やる事が無いのでお酒を飲んで(総理ご夫妻とお手伝いさんと自分しかいない)一日を終わらせようと思ってちょっと深酒をした日だった。公邸直通の電話があたり前の様に鳴った。最初何を言っているか分からなくていたずら電話だと思い電話を切って、もう一回かかってきたが同じ人で英語を喋っていた。こちらも酔っぱらっていたのでよく分からないので二回目も切った。それから30分位したらまた電話が鳴った。今度は外務省の秘書官から電話があって「これからそちらへ行ってアメリカの大統領と電話会談をする」という事で「すぐ総理を起こして準備をしてくれ」という話になってその段取りを全て終わって酔っている顔をピシピシ叩きながら酔ってない様な振りをしながら仕事をして、それで終わってその秘書官が自分の部屋へ来て「私が電話をする前に何処からか電話なかった?」と聞かれた。「あーそう言えば電話ありましたね」「いやーそうか、実はブッシュ大統領が電話を入れているんだけど「俊樹から聞いた番号に電話をかけているが全然繋がらない」と言われて」と。ブッシュのお父さんからの電話を2回たたき切った(笑)。笑えない話で今だから話せる、飛び上がっちゃう位ビックリな話。ミサイルなんか飛んで来たら大変な事。酔っぱらって切っちゃう、こっちは(笑)、全然繋がらないじゃないかと。丁度湾岸戦争真っ只中。(海部さんは英語を)―喋れる。(外交の話が出来る位の英語能力があるか?)―あるが、正式にやる時はお互いが通訳を入れる。(その時は余程だった?)―何か話したのではないか。「おやすみ」だけではないと思う、こっちは夜中でも向こうは分からないので。(その話は海部さんには?)―バレている。ずっと終わった後、総理を終わった後にお叱りを頂いた。どうもすみませんでした。(一番怒られた事は何か?)―言っていいんですかね、見ていない事を願って。これも総理の任期中だったが、ある地方選挙があり総理の奥様に随行してゴールデンウイーク真っ只中の選挙の応援だったが、名古屋から戻る時に一宮の事務所からだったので名古屋駅から新幹線に乗って帰るのだが座席が一杯で取れなかった。付いて外に出たのが初めてだったので勝手も分からなくて先輩は皆「大丈夫だから名古屋駅に行けよ」と言われたが、座席が取れていないのでギリギリまで事務所に留まってしまった。それで連絡が入り「取れた、大丈夫だよ」と言われてさあ出発しようと思ったらもうとても間に合わないと言われたので、本来なら一宮の駅から名古屋の駅まで車で往復しなくてはいけないのに一宮駅から名鉄電車に乗せた、現職総理の奥様、ファーストレディーを。名鉄の名古屋の駅はちょっと離れている。歩いたのではなくそこからダッシュ。もう時計を見ながらダッシュ。自分も完全パニック状態。たまたまご子息が随行で付いて来て下さった。本当にダッシュ。あんなにダッシュしたのは初めて位ダッシュ。しかもコンコースが長いのでそこをダッシュ。その後ろ姿は未だに忘れられない。駅に着いて名古屋駅の新幹線に乗るエスカレーターを上がった時に一言「名古屋駅をこんなに一所懸命走らされたのは生まれて初めて」とお叱りを受けた。東京に行くとまた公邸でご一緒の生活でたしか2ヵ月位言葉を交わす事は無かった。(総理のほうは?)―大丈夫。助かった。ご子息がみえたので多分新幹線の間にフォローして頂いたと思う。(SPは付かなかったのか?)―付かない。

●質問コーナー

Q: 昨日の小泉元総理の記者会見を受けて、代替エネルギーは専門家が必ず見つけるという無責任な発言をされているが、意見は何かあるか。
A:原発の最終処理場の話を小泉元首相は話されていたが、その部分は当たっているか当たっていないかと言ったら当たっている話。確かにそういう現実もありながら日々エネルギーは供給しなくてはいけない、しかも安定したエネルギーを。価格もバカ高くなってはいけない訳なので、そこのところをどういう風に考えていくかという事だと思う。「最終的な原子力の核のゴミを何処へ?」という事は必ず見つけなければいけないと思うし、よく言われる、入口があれば必ず出口、出口は責任を持って見つけなければいけない事だと思うし、一概に小泉元総理が言われいているのは私人・公人抜きにして決して間違っている事ではないのではないかという気はする。ただ、今現実としてどうなんだ?というところは併せて考えていかなくてはならないとは思っている。多分小泉元総理は我々ではなくて国民の皆さんに向かって話をされていると思う。(凄い影響力)―ある。(小泉進次郎氏は「父は父、私は私」と言う)―それしか言いようがない。(裏でもそうか)―ご本人から聞いてないので分からないが多分そうではないか。 (小泉元総理は)―完全に本気モード。こちらの新聞に載ったかどうか分からないが、地元の新聞では細川元総理と対談されてという話、凄いなと思った。お二人で合唱?一人では合唱できない。(お二人が政界に復帰したら刺客を立てられたり(笑)?)―狙われるのは1区から。(これが名古屋の顔)―いいかどうか別(笑)。
Q: 総理の秘書はなかなかできないと思うが、その経験が活きているのはどんな事か。
A:どちらかと言うと官邸公邸の、仕事をする官邸ではなくて生活をされる公邸のほうだったので、2年3ヵ月居て土産が欲しい。良い事があったのではないかと言われてスパッと答えたいところだがちょっと涙目になってきた(笑)。良い経験をさせて頂いたのは事実。日頃見えない物も見せて頂いたし、権力の中枢という場所なのでこんな事やるんだあんな事やるんだと。ただ今の様にセキュリティは全然しっかりしていない。ガラガラガラと鉄の戸を引いたら中に入れる。金属探知機など無い、当時は。
Q:危ない事はあったか?
A: 我々はお陰様で危ない経験は無かった。
Q:海部俊樹さんは議席はあるのか?
A:引退されている、前回で。自社さ政権の時に社会党と組むという事に反発されて離党された。その後小沢一郎先生たちと新進党というのを作った。
Q: 小沢先生とは最後は仲良かったのか。
A: 仲良かったのではないか。
Q:地元ではまだ影響力があるのでは?
A: それはあると思うが、殆どは東京で生活をされていると思う。
Q:くまだ議員が出る時は為書きをして貰ったか。
A:一生懸命応援して貰った。選挙区には足が悪いので入って頂けなかった。とにかく頑張れと応援して頂いている。
Q:戦前の教育エリートと一般大衆の差が大きかったと思うが、昨今の東京大学の世界ランキングでは二十何位しかならない中で上層の教育に関してはどう考えるか。
A:エリートの人たちを作るというのは大事な事だと思う。皆一緒という事ではなくて良    い人はトップランナーとしてリードして頂く。その数字を見て「こんなものか」と思って納得してはダメだと思うので、トップで走って行く人はトップで走って行く。ご自身のおられる立場で精一杯やられる事をやっていく事だと思う。やはりトップはトップでトップランナーを作らなくてはいけないし、地元愛知県もそうだが日本は「物づくり」の物を作っていく処なので、特化していく子供たちも「理数系はダメ」ではなくて理数系を専攻してやって貰いたい。子供たちに夢を与えられなくなったのは何が悪いのか分からないが、夢が与えられなくなった。この間も委員会で大臣の答弁の時に、高校生の孤独を感じるパーセンテージは世界一なのでこれは本当に憂しき事だと思うし、ブータンの幸せ度もあったが、物やお金があるから幸せというだけではなくて何か価値観というかそういうところをやっていかないと。「人がいるから幸せだ、人がいてもお金が無いから幸せじゃない」と、そういうものではなくて「こころ」って昔の人って持っていたんだろうという気がする。批判があってはいけないが、社会のセーフティーネットというのは生活保護だと思う。それは絶対にこれからも守らないといけないと思うが、働いているよりも生活保護を貰った方が得だと言って生活保護に簡単に移行していくという感覚はあってはいけないと思う。人があり、家族があり、親がいるが、親の教育をするという生意気な事はできないが子供のうちから、必ず親になるのでそれを今から変えていかないとダメだと思う、頭も心も。先に行く人を目標にして貰えない、金持っている人は妬まれるという。自分より優れた人は目標だった「ああなりたい」という。今は何かともすると妬みの対象になってしまうと感じるのは寂しい気はする。(議論をもっと自由に闊達にと言われるが)―自由に…なかなか難しい。ネットでも何か喋った瞬間にバーッと出るから怖い。仕方が無い事だと思うが。もう少し人間の中で大らかさがあっても良いのではないかと思う。
Q:自民党は相変わらず世襲議員が多い事で党内の活力や幅が狭まるのではないか。
A:うちの(議席の)列は皆世襲ではない。自分たちの前(列)はサラブレッド牧場(笑)。自分が世襲ではないからという訳ではないが世襲には否定的ではない。初代でやる人は初代でやる難しさがある。一から作っていかなくてはいけない。2代目の人3代目の人の辛さっていうのは、必ずお父さんお祖父さんと比べられるところがあると思う。そこからスタートしなければいけないという、地盤だとかそういう事は別にして代を繋ぐ人というのは色々なものを背負って来ていると思うので、世襲と言うよりもそこになられたご本人の考え方ではないか。世襲だから、という話でなるか、幅が狭くなると仰ったが、では地方議員からやってきた奴が100%良いのか、2代目3代目は能力が無いのかという風に言ったらそれは「個人」だと思う。そういうご心配を頂くのは有難いので我々も幅を持っているところは、我々が幅ができる様に頑張っていきたい。地方議員の人も沢山いるので、今回1年生で。そういう人たちと一緒に幅を持たせて行きたいと思う。(世襲は)いい人ばかり。繋いでいくと後援会の皆さんには安心感があるが、2代目は比べられるというところはあるのではないか。
Q:自分で秘書さんをやっていたので(秘書の仕事に)厳しいか。
A:ぶっちゃけ言うと(スタジオ観覧席を指して)海部秘書をやっていた時の先輩秘書。微妙な関係(笑)。
Q:話す時は敬語で?
A:そうでもないが時々は。もうずっと長い。今急きょお手伝いに来て頂いている女性は昔一緒に海部先生の処で仕事をしていたかた。
Q:ご結婚は?
A:海部先生が総理を終わってすぐ。
Q:お子さんは?
A:3人。大学生2人。
Q:子供には議員に?
A:全く無い。本人がどうするか知らない。できたら自分はやらせたいとは思わない。
Q:山口秘書さん、くまださんが立候補される時は「エーッ!?」という感じだったのでは?
A:「エーッ!?」と言われた。まさかくるとは思わなかった。頑張れよー位の話だったのではないか。