中川 俊直
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第86回
2013年08月29日 放送

自民党 中川 俊直 衆議院議員

(以下、動画より文字おこし)

自民党 広島4区 1期目

父は中川秀直で「なかがわしゅうちょく」、自分は俊直で「なかがわしゅんちょく」と呼ばれる。(顔は似ていないが)声は低いトーンで父に似ていると言われている。濃い顔を
している。父を超えたら当然の親孝行になると思う。その位の宿命は大きく持っている。世襲批判というのもすごくあったが、小泉進次郎青年局長とも「自分が本当にダメだ」と
いう時にはすぐに世襲批判がくるので我々は本当に胸の中におさめてしっかりやっていかなくてはならないと話している。小泉進次郎氏とはそういった意味では同じ宿命があるが、そうは言っても幼い頃から政治の環境の中で生まれ育って来たし、自分は幼い頃に
政治家を目指そうと決意を新たにしていたので謙虚懸命になってやっていきたいと思う。
平成5年から8年間、テレビ東京に勤めていた。取材する方からされる方になったが、自民党の「カフェスタ」などでもその経験を活かしている。

●幸せ度数年表

(ダブルクリックで拡大)

第86回中川俊直

1970(昭和45)年、東京生まれ。
父は日経新聞の記者をやっていた。「アベノミクス」という言葉も父、秀直が名付けた。
7年前、当時1回目の安倍政権で幹事長だった秀直が国会の質問でまさに「アベノミクス方向で日本はもう一度自信を取り戻して蘇っていかなくてはならない」と言って今日の政策は父、秀直が提唱したもの。その後政権交代があって7年間遅れたがようやく今こういった金融政策、財政政策から成長戦略がいよいよ描けるようになった。6年前に参議院選挙で大敗をして1回目の安倍政権が倒れたが、あれでもし仮に勝たせて頂いたなら速やかに参院選後この政策が実行されていたという風に自分も捉えている。自分もマスコミ出身なので猛省を込めて思うが「成長しないでいい」というのは大きな間違いであってそんな人間は政治家を目指す必要はない。そういうのはテレビの評論家になって「日本は黄昏の国になって良いのだ」と言い続ければ良いと思う。やはり政治をやる側は今の日本のアイデンティティの中でいかに日本の素晴らしさを伸ばしていくかという事を常に言い続けなくてはいけないと思う。まさにアベノミクスというのはそういった方向性がもう一回日本を立て直し蘇らせていくという事を目指し皆さんとやっていくという事。
まさにレーガノミクスに引っかけてできた「アベノミクス」に流行語大賞ぐらいあげて
欲しい。
東京で生まれ、3歳の時、ちょうど父が選挙に出るという時に広島に帰って、陽射しが強くてすぐに倒れ3日間意識不明になり医者から「もうダメだ、親戚を呼ぶように」と言われ祖母がずっと私をさすってくれて蘇り医者からは奇跡だと言われた。母からは「あんたはこの際一度死んだんだから思う存分男なんだからやりたい事をやりなさい」と、この位から10代になるまでずっと言われ続けた。もう本当にやんちゃをさせてもらった。(前回のゲストの小松ゆたか先生は熱中症の大家なので)小松先生にもまた相談してみる(笑)。おそらく小学校3年生、9歳の時に父は1回目の落選を経験。小学校3年でも分かったが、家族離散になるのではと思う位の状況。まず給料を貰えなくなるというのは
何となく分かった。明日の生活がどうなるのかという厳しい側面をみさせてもらった。
6歳の時、父は新自由クラブから出て初当選、2度目の時に落選。広島2区は竹下元総理が「日本一の殺戮的選挙区」と言う選挙区で4人区に自民党公認が4人いる上に野党の皆さんもいらっしゃる所で必ず現職が落選する選挙区で、落選した人が必ずトップ当選で返り咲くという、昭和47年から最後の中選挙区の平成5年まで延々と20何年間落選した人が必ずトップ当選で返り咲くという選挙区。現職の大臣も落選したし、3歳で意識不明になった頃から平成5年までずっとそういう事を見続けてきた。まさに仁義なき戦いが呉市という選挙区で父は2度落選をしている。中学生12歳で上京。田中正造の伝記を読んで足尾銅山の公害問題に自ら身を挺して明治天皇に切腹打ち首覚悟で血判状を持って行った様を見て感動して読書感想文を書いて12歳の時、全国読書感想文で表彰を受け政治家になろうと決意した。地元事情をずっと見てきてそういう気持ちになるんだったら早く上京して色々なものを見なさいと、二人兄弟の年子の兄と二人で東京で生活をした。兄は某大手企業の秘書室でコンプライアンスの担当。二人で自炊し、卵焼きや野菜もぐちゃぐちゃに炒めたりした。逞しく育てというのが父の考え方で家庭ではとにかくアドバイスをしない。「俺の背中を見て良いものは学べ、悪いものは吸収するな反面教師としろ、背中で見なさい、君たちの思う様に生きなさい」と。その代り家庭環境がそうであるから相手(父)が理詰めでいけばこっちも理詰めで男同士決闘する。父はゴルフ大好き。スウィング打つのが遅い。この辺に住んでいるので昨日も会い今晩もこれから会う。小さい頃から父と一緒に居たことが殆ど無いので、これではいかんのかも知れないが親子というか良い兄弟の様な、兄貴、師匠、先輩というかそういう付き合いになってしまう。東京に出て来た時は言葉で苦労をした。「ねぇ」「おはよう」と一言言っただけでもう訛っていると言われたので1年間は口にチャックして喋らないようにした。いじられキャラ。ガキ大将キャラ。15歳、中学生の時に陸上競技をやっていて3000mで東京都第5位になった。まったく運動オンチだったが日本体育大学で箱根駅伝をやっていた顧問に出会い、育ててもらいおだててもらって何とか東京都で5位にしてくれた。その時に「教育だなあ」と思った。自分は本当にスポーツができなくて何も取柄が無いと思っていた。短距離は遅かったが「お前は1mでも長くなればなる程ドンドン強いぞ」とおだててくれたので「豚もおだてりゃ木に登る」で、終わってみたら3000m東京都第5位だった。受験勉強もせずに延々と走り続け、中学高校は陸上競技に集中する期間だった。
受験勉強に失敗し、日本大学鶴ケ丘高校に入った。16歳で家内と出会う。高校の陸上部の後輩でマネージャーとして面倒を見てくれていた。そのままずっと交際して結婚した。
大学の頃に「自分は将来(政治家を)やるよ」と宣言していたが「今そんな事を言われても」と当時は言われていたが、その位の気持ちは持ってやっていた。中学高校の頃は陸上をやりながらとにかく政治家の回想録、伝記を読み漁っていた。岸信介さんの回想録にはアンダーラインを引いてポストイットまでつけて読み漁った。吉田茂さんとか田中角栄さんも皆やはり「人間」で面白く、とにかく関心があるテーマだった。時々鈴木宗男さんにもジムでお会いするが人間味がある。広島の実家の真裏にご親戚の方が住んでいて「おい!石井さんをあんた知ってるだろ?」(鈴木宗男さんの物真似)と、ジムのランニングマシンの横で走っていたりする。政治記者時代に物真似をやり過ぎて出入り禁止になった事がある。藤井裕久さんの物真似で出入り禁止になって3~4日で許してもらった。
「麻生太郎です」「これそうなの~?」(麻生太郎さんの物真似)日本大学に入学。大学1年の冬に父が2度目の落選。大学の1、2年で単位を集中的に取って3、4年生の時は週に3~4日地元に必ず帰って「親父を宜しくお願いします」と選挙区中を歩き回った。これはお家騒動で綺麗事とかご批判もあるのかも知れないが家にとっての一大事。その時はサークルとか関係なく大学時代はとにかく父の再選に向けて一緒に進んで行こうという事で19歳から卒業するまで毎週選挙区を歩き回っていた。兄は2年早く社会人になっていたので自分が代わりに地元周りをしていた。父は大したもので、落選しても「神が自分に与えた試練だ」と言っていた。その日のご飯も「おかわり!」と言って食べ、自分が持っていたテレビゲームも「一緒にやろう」と言って元気だった。政治家というのは忍耐力や胆力が無いと務まらないと父の生き様を見て感じた。やはり前を見て先に行かないと、下ばかり見ていても仕方がない。大したもので嫌な事を忘れる能力というのはすごいと思った。23歳、テレビ東京入社。念願叶ってマスコミに入った。政治を目指したいと思いながらも父からは「社会を見て欲しいし天命民意―民の皆さんの声を聴いた上での天命があるだろう」という、現状の社会で国民の皆さんがどういう風に思っているか、これをまず一番大事なフィルターにかけて自らの政策の決断をしていくべきだというのが父の信念で、そのためにも父もマスコミ人だったが、祖父もマスコミ人だった。祖父も衆議院議員を8期も務め、父も10期務めた。3代目の自分は祖父「俊思」の俊と、父「秀直の」直の字で「俊直」なので後を継ぐのは必然的に自分だと勝手に思い込んで生きて来た。祖父は中国新聞という地元広島の地方紙の記者の後、昭和24年に初当選して衆議院議員を8期務めた。当時戦争遺族の皆さんの戦後の生活をどうしていくか、遺族年金をどうしていくか、これにすべての生涯を捧げた政治家で遺族の神様と言って頂けるような政治家。3歳の時に祖父が亡くなり、父秀直が選挙に出るという事で広島に行った。25歳で高校の時に出会った女性と結婚。家は早婚の家系。父と母が慶応大学の同級生で23歳で結婚、兄夫婦は中学の同級生で、自分は高校の先輩後輩で、皆早婚。8年間テレビ東京に勤める。2001年4月に中川秀直の秘書になった。8年間のうち3年間スポーツ記者をやり、5年間政治記者をやった。平成5年の入社だがその時のスポーツ界は若貴も全盛期、巨人軍のミスター長島監督が復活した年で、イチロー、Jリーグ開幕、ワールドカップのドーハの悲劇で後にも先にもテレビ東京が一日三冠王を取った年。政治記者では最年少の野党記者クラブのキャップだった。1997年当時橋本内閣の時代、野党には新進党という政党があったが小沢さんが12月27日にぶっ壊した。これが7つも8つもバラバラになって野党ができた。小沢さんは自由党という政党を作り、公明党の皆さんは新党平和、民社党系は新党友愛、細川元総理に到ってはフロム・ファイブという戦隊かと思う様な新党ができた。それをおむすびみたいに結んでできたのが今日の民主党だったというのを目の当たりに見て来た。民主党の結党も全部見て来たが、やはりあの時記者時代に議論になったのは「党の綱領を作らなきゃ」と記者が言っていた事。失敗だったのは、結局政権交代だったので綱領も政策軸もこれを言えば票になる、という様を結党の原点の時に見てしまった。気の毒だが1つの勢力を結集しようというのに7つも8つもごった煮みたいな理念をおむすびに結んだみたいなのが民主党。やはりそこに限界があったなというのを記者時代に見せてもらった。新進党が壊れるところから民主党結党まで見て来たし政治記者時代は面白かった。自社さ政権があって、自民単独政権があって、自自公政権があって、野党の中では新進党が壊れて色々な政党がワーッと出来て、それが民主党ができる過程として全部記者時代にキャップとして見せてもらった。テレビ東京の野党記者クラブでキャップ最年少で、隣のテレビ朝日の野党記者クラブのキャップは民主党の笠浩史さんだった。毎晩一緒に飲みながら「野党はこう変わらなきゃいけない、日本の政治はこうならなきゃいけない、自民党は変わらなきゃいけない」と話していたら今、永田町でお互いにバッジを付けてやっている。「不思議なものですね」と話している。テレビ東京8年勤務の後、31歳で代議士秘書になる。父が内閣官房長官で辞任に追い込まれた時に、後裁判で勝訴させて頂いたがマスコミから連日「辞めろ辞めろ」という事で内閣官房長官を辞めた時もお家騒動。森政権の皆が叩かれていた時期は(自分は)記者時代で、神の国発言など言わなくてはならないし、鳩山さんの「ぶらさがり」を録りに行って「けしからん即刻退陣するべきだ」というのを原稿にまとめて喋らなくてはいけない立場だったが、父は官房長官を辞め2000年の10月位だったが、その時にやはり父を支えないといけないと思って2001年3月に記者を辞め2001年4月に秀直の秘書になった。この後小泉政権が翌月生まれる。そこで秘書をやり、4年位経った時に(父は32歳で初当選しているが)地元の商工会の方とか、市長が引退表明をされるという時期に市長さんと話をさせて頂いて出させて頂こうと決断したがやはり当然世襲批判もあるし国政も市政も家で牛耳るのかと批判も頂き落選という試練も頂いたが、良い経験をさせて頂き今日の肥やしとなる素晴らしい貴重な貴重な経験だった。本当は「幸せ度数年表」もクネクネしてなくちゃいけないが自分の中では直線。常にこれは試練だったと、目先の何をやるかという事を考えなくてはいけないので市長選落選は良い経験だった。この後また地元を這いつくばって回らせて頂いて自分はこの郷土から育ててもらった人間だなと益々感じさせてもらった。その後衆議院議員に初当選するまでの7年間は、何をやろうかと自分なりによく考えた。今では笑って言えるがその当時は苦しい時も正直言ってあったが、その中で早稲田の大学院を修了させてもらったりとか、精神対話士という資格を取得させてもらった。今の時代、心の病というのがすごい。国の統計で鬱病が100万人位いるが推定では400万人位いる。これからの少子高齢社会でも一人暮らしの方が500万人いる。これからは経済の成長ももちろん大事だが、心の成長の部分、経済と心の一体の成長を作っていかなければいけないと強く感じた。精神対話士の資格を持った国会議員は自分が初めて。地方議員の皆さんには何人かいらっしゃる。現代社会が生んだ新しいテーマ。(7年間の後当選し)幸せ度数は100%を超えている。負託を与えて頂いて自分は何をしていくかというのをこれから本当に訴えていかなくてはならない大事な時期に来ている。父の引退報道が9月にあったが父はまだ69歳で色々な意味で本人が考える事もあっただろう。世襲とも言われるが、今回県連が公募し4人の応募者があった上で決めて頂いた。そうは言っても世襲批判はこれからも付きまとうと思うが、何をなすかという事で自分自身で応えていきたいと思う。「幸せ度数年表」で久しぶりに頭の中を整理させて頂いた。自分史の中に則って自分がいるし自分も今回別の選挙区から公募に応じるか2年位悩んだが、やはり自分を育んでくれたのは郷土なので郷土の代理人として国難に挑んでいきたいという思いがすごく強かったので何処の選挙区で良いという思いは無かった。東京でも大阪でもどこでも良いからやりたいというのではなく、やはり自分を育んでくれた人の声を聴いて国政に出たいという思いが強かったので批判は批判として受け止めて何をなすかだという事でこれからもやっていきたい。

●最近の政治トピックス

国会は盆明けで概算要求等はやっているがまだ静か。おそらく中旬から臨時国会が開くと思うが、この時期は国会議員にとっては外遊に行ったりまず多くの出会いを求める時間。政治も外交もすべて人対人。8月下旬から9月にかけては国会議員にとって非常に大事な時間でこの時間に何をするか何をしないかで大きく決定的違いになってくると思う。
「政治トピックス」としては消費増税をどうするか結論を出さなくてはいけない時期に来ている。有識者協議1回目。まずこの3年間のうちに消費増税は政治の責任としてやらなくてはいけない。ただ、今の段階でやって良いのかいけないかと考えた時に自分も地元に帰って色々な意見を聴いて来たが、東京は大分元気になってきたがアベノミクスの恩恵が地方や暮らしにまだ下り切れていない。政治の教訓で学ばなくてはならない事は、橋本政権時代(消費税を)3%から5%に上げて税収が下がった。これだったら何のための消費増税か本末転倒してしまうと思っているので、とりあえず今回は消費増税は先送りをするべきだと考える。ただし、次の総選挙までの間には政治の責任として1年から1年半先送りして、まず集中期間としてデフレ脱却を果たす。その上で政治の責任として消費増税までをやらなくてはならないが、それで自民党が負ける事があってもやはり次世代への責任としてもやらなくてはいけない。まずこの1年半の間にデフレを脱却しもっと無駄にメスを入れる。まだまだ無駄が多い。一番バッターは成長戦略を描く事。二番バッターは無駄を削減していく事。そしてデフレ脱却をしその上で消費増税を国民の皆さんにご理解を頂いて実行していく事。やはり順番が違う。父が政調会長時代に「骨太の方針2006」というのを作ったがこの時はもっと無駄にメスを入れていた。財務省が当時の政調会長、幹事長に呼ばれて「ここをこれだけ削れ、あそこを削れ」と言われたのは初めての事で、それまでは政治家が呼んだら「ここに予算をはり付けろ、あそこにはり付けろ」だったがそれ位やっていた。政府資産を思い切り圧縮するという法案まで出したが、実は凍結したのは民主党。民主党は凍結した上に「仕分け」みたいにショーをやってしまった。それで事業仕分けでマスコミが民主党を「スゴイスゴイ」と言っていたが単なるショーだった。まだまだやるべき事をやった上で消費増税をしないといけない。自分は増税は否定しないし責任としてやらなくてはいけないが、そのロードマップを安倍総理に是非描いて欲しいと思う。日本は1000兆円の借金があると言われている他方で600兆円超える位の政府資産があり、日本は各国に比べたらとても多いが、そういうものを如何に遣っていくか。これからの時代は印刷局などは東京にある必要はなく地方でも良いが、全部オオクラの横とか一等地にあるのでドンドン民間に提供などした上で、そういう事を言うと嫌われるかも知れないが、宿舎とか、そういうのもご理解を頂いて切り込んでいく。色々あると思うが、色々な意味で努力をしていかなくてはならないしまずはデフレ脱却が一番。財政再建は国際公約だという人がいるがデフレ脱却も国際公約。ただ消費増税も絶対やらなくてはいけない。ひら場でまだ言う機会が無いので先輩議員とも「ドンドンこういうのを意見として言う場を作っていかなくてはいけない」と言っているし総理も確実に国益に適う素晴らしい決断をされると信じている。総理も色々な意見を聴いて決断される。

●今だから言えるあの日のあの出来事

幼い頃から家庭環境の中で政治家の方と出会える機会というのがとても多く、やはり父の応援で多くの先生方とお会いしたが、岸信介さんの回想録を読むのが好きだと言ったが、今から6~7年前、1回目の安倍政権が終わった時に、岸信介さんの回想録に線を引いてポストイットを貼って父に頼んで安倍総理に届けてもらった事がある。小さい頃から総理にとても可愛がって頂いて、お父さんの安倍晋太郎さんの秘書の時に初めてお会いしてお兄ちゃんの様な感じでいたが、それからずっとお会いできなかったが、安倍晋三氏が総理を辞められた時に岸信介氏の回想録に覚えている処で二か所に線を引いて父に託したが、その一つは「政治家は理想主義でなくてはならない。国民の一歩も二歩も理想国家を築いていって牽引できる事こそ政治家」ともう一つは、ここを是非安倍総理に伝えたかった処で、岸信介さんが70歳を過ぎてもう一回内閣をやろうと思った事があるというくだりで、それは憲法改正をなすためにもう一回内閣総理大臣を目指そうとし結果それは叶わなかったが「一回総理大臣をやった人間は二回目必ずもっと良い仕事ができる、何故なら政党の在り方、官邸の仕組み、そういったものを確実に良く理解できているから必ず二回目を目指した人間はもっと良い仕事ができる、伊藤博文もそうだったではないか」という処。線を引いてポストイットを貼って安倍総理にもう一度やって頂きたいという思いで丁度7年前にお辞めになって3カ月後位に父に頼んで持って行ってもらった。昨年の12月16日、総選挙で勝たせて頂いて26日から特別国会を開いたが、その初日に、永田町には20年いたが本会議場に入る事はできなかったが、「安倍晋三」と自分で書かせて頂き首班指名で決まった時には鳥肌がダーっと立って今日本はすごい閉塞感だが、再チャレンジを正に具現化するリーダーが誕生したと思って嬉しかった。安倍さんとはよくお会いする機会があってここでは言えないお話もあったり、一回生の心構えについて色々教えて頂いたりとか、地元広島の熊野筆という70%シェアの筆を閣議の筆に使って頂いたりしている。今本当に素晴らしい。一回目の時は、テレビカメラの目線がどうとかネクタイがこれでいいかとか気になっていらしたが「全くネクタイが合わない」と言っても「僕これつけたいからね」(安倍総理の物真似)と好きにつけていらっしゃるしカメラ目線が少々可笑しかろうが何を言われようが堂々とされているし、今回の靖国の対応でも「空気」にされているがこれは凄い事。これで総理が何か言ったら色々なものが待っている。あえて空気にされるという事は一番素晴らしい。当たり前の事なので反論する必要も無い。すごいなと思う。堂々とされている。「(玉串料)もあえて自分はこういう立場だから持って行った」と言わないのは日本人であり、当然の事だと思っている訳だからそういうどっしりと構えられているところは大したものだと学ばせて頂いている。首班指名の後国会が始まる前からアベノミクスと言われていた事も凄い。父は「「アベノミクス」という言葉は安倍総理にもらって頂きたい」(父の物真似)と言っている。

●質問コーナー

Q:外交面では中国と対話ができないなど、今ひとつ強気に出ていないと思うが、今後の
アジアにおける日本という外交面での考えは?
A:外交はやはり人対人。自分も中国の方と再三お会いし、秀直の時代から何度も中国には行っている。事前に、会談のセットの前から行っていたが、各国の首脳とお話をさせて頂く時に、両国で国民感情を如何に維持管理させて頂きながらwin-winで協調できるもので如何に協調していくか、そういう方向になっていかなくてはいけないと話しているが、北東アジアの問題は中国韓国を含めて物凄く難しい。思い出せば1980年代というのは靖国問題というのは全く存在しなかった。中曽根さんが行ってからで当時のあるメディアが中国に対し「日本の総理大臣が靖国(に行く)というのをどう思うか、A級戦犯が合祀されているがどう思うか」というところから始まっていて、それまでは総理大臣が行こうが全く問題にされていなかった。そういう国民感情を捉えて中国も韓国も批判をしていく。批判は批判で良いがいつも中国韓国の方に「これ以上批判したら日本の国民感情もいい加減にしろと言う。お互いにそこを考えましょう」と言うと「本当に仰る通りだ」と言う。まずは、一番大事なのは「協調できるものは協調しよう。いよいよ9月7日は東京オリンピック招致決定の日だが応援して。北京の時、上海の時に応援したではないか」と。(東京に)決まれば良いと思うが、そういうところからまず、パンダ外交も然りだが、やっていかないとならない。「日本だって国民感情がいい加減にせい」という事だってあると素直に言わなくてはいけない。まず心をぶつけ合っていかないと何も生まれて行かないと思うし中国の建国の父、孫文が「日中関係もアジア各国は違いを乗り越えて王道でいかないと」と日本の神戸での演説で言っている。やはり原点に立ち返ってお互いに国民感情というものはありながらも違いを乗り越えてやっていけるところはやっていくというのをまず第一義的に考えなくてはいけない。来月は一回生の仲間たちと中国に行く。福田康夫元総理の息子達夫さんなど6~7人で行くが、とにかく二重外交などは絶対あってはならないし、次の若い世代と人対人の繋がりを作らないと、チャンネルが無いとどうにもならない。
「つきあうな」などとネット上で出て来るが、それでは外交はできない。まずはやはり人対人。その上で言い合って飲み合って現実の日中関係をwin-winにしていけるようにやらなくてはいけない。

Q:マスコミは意図的な報道をしているのではないかとネットなどでは言っているが、マスコミにいた身としてはどう捉えているか。
A:両方の気持ちが分かってしまう。マスコミが悪い気持ちでやっているかというとそんな事はなくて問題点を指摘しながら国家のために貢献していきたいという事で、自分自身もそう思ってやっていた。テレビ東京という所に勤めていたが、マスコミはいつも議論をして批判精神も大事だが批判精神ばかりではなくて日本の素晴らしいアイデンティティなどをドンドン広めていくというのはテレビ東京で学ばせてもらった中で一番大きかった。「ガイアの夜明け」「未来世紀ジパング」「ワールドビジネスサテライト」など商品開発をしてきたが、マスコミは厳しい事を言わないと視聴率が取れないと言う方がいらっしゃるが時に性悪説も良いが性善説に立った側で良いものをドンドン紹介していくという観点で両方やるべきだと思う。もう一つは批判をするのであれば自分の立ち位置をまず明確にして批判するべき。例えば、民主党系評論家だったらそれは自民党の事を批判しても良いが、その立ち位置を明確にしない上で現政権を批判したら分からなくなってしまう。安倍政権を褒めるのであれば自分は保守系評論家ですと立ち位置を明確にして頂ければ視聴者には分かり易い。アメリカではそれができていて民主党系、いわゆるトライアルロイヤー系の人たちを支援している評論家であるとか、グラスルーツ系を評価する評論家であるという事が分かれば国民はその人たちの意見を当然その様に聴く。(日本は)中立だと言いながら批判をするから訳が分からなくなって視聴者の皆さんも分からなくなってしまうので、まず立ち位置を明確にした上で言うべき。色がつきたくないのに批判をしていたら分からない。立ち位置を明確にして現政権を支持しているのかしていないのか明確にした上で仰ったらとても分かり易い。自民党の理念に賛同する人が野党批判をしても、自民党だから仕方がないという事になってくる。三宅先生は保守を理解されている立場だと分かるので、三宅先生は「自分はこうだ」と仰っていた様なものだと思う。分かり易ければ視聴者の方も聴き易い。マスコミも皆右習えという問題点もある。論調が似かよっていたりレポーターは意見を言ってはいけないみたいな事もある。「○○と述べ、□□という見解を示した」の「○○と述べ」までは事実で「□□と見解を示した」という処で政治記者色が出る。そこの作り方が一致結束してしまっている。「神の国発言」の時、自分は批判はしなかったが、当時マスコミが叩いたピークは父の頃で、右習えは凄かった。今は大分柔軟路線になって右習えは無くなってきた。

●その他

小泉進次郎さんはこの間も一緒に飲んでその前はお好み焼きを食べたが、やっぱり大し      た者。11歳違うのに、やはり日本の宝。お父さん以上に凄いのではないかと思う時がある。広島のお好み焼きをご馳走させて頂いて、そばとうどんの半分半分を「チャンポン」
だと言ったら次の講演で一声「イノベーションだ!」と言っていた。「サーフィンは趣味だからやりたいねー!でも今は永田町の波乗りするしか時間が無いからね」(小泉進次郎氏の物真似)と上手い。大したもの。今は「パッと聴かれた事はすぐに答える、それでいて失言はしない」という事をテーマにされていて、参院選も今回テーマを三つに絞った。「被災地」「過疎地」「離島」これをテーマに行ったがこういうテーマの仕方も上手いし、青年局の会合などでの司会進行の仕方も本当に凄い。やきもちがあるとしてもそんなものは飛び越えている。凄い!酒もいくらでも飲める恐るべし32歳。