酒井 庸行
sakai
第224回
2018年12月26日 放送

自民党 酒井 庸行 参議院議員

 

押し出しの強い議員さんの世界にあって、控えめな中にも優しさが溢れでる酒井議員。

内閣府・政務官時代の話、日本経済の話、今までの選挙の話。

日本大学芸術学部出身の酒井議員は、実は舞台監督などの芸術家志望でした。

その時の「芸術かエロか?」の話は「今だか言えるあの日のあの出来事」のコーナーで詳しく!

 

(動画より文字おこし)

自民党(愛知選挙区) 1期目 2018年 10月 17日 収録時点

[鈴木淳司さんのご紹介で。なんと!鈴木淳二さんはこの「みわちゃんねる」に出演されて直後に、総務副大臣に任命されて。凄いですね!] ― そうですね、副大臣は二回目ですからね。[愛知のご出身ということで。お声が街頭演説のし過ぎかなあ、ということで] ― 本当はもっときれいな声をしているんです。(笑) [来年、選挙だそうですね!] ― そうですね。[6年間、早かったんじゃないんですか?あっという間という感じですか] ― 本当にあっという間。愛知県全体を見るわけですけど、それだけじゃなくて東京にいる時間も多いですからね。いろんな仕事をやらせて頂いていると、本当にあっという間に過ぎていきます。[地元と行き来しているだけでも、時間のロスと言ったらあれですけど、大変なことですよね] ― 地元が愛知県ですから近いように思えるんですけど、国会議事堂を出て、愛知県の現場に。近い所でも、名古屋市内でも現場から現場に行くのに3時間かかるんです。往復していると6時間かかるんです。それを週に何回かやるんですけど、どうしても行かなきゃいけないし。[じゃあ、国会を愛知に持って行っちゃいましょう。(笑)]

 

「幸せ度数年表」 (クリックで拡大)

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[1952年生まれということですね。ご地元で] ― 愛知県の刈谷市という所です。 ― [そちらで生まれ育ったということですね] ― 先祖代々です。[そして中学時代、網膜剥離に。どうしたんですか?] ― 中学校の3年生の時にサッカーをやっていまして、サッカーボールをまともに受けて。自分が蹴ったボールが相手に当たって、それが自分に当たって。(笑)一週間ぐらいちょっと変だったんですけど、パタッと半分、見えなくなりまして。[恐かったですね、それは恐怖ですよね、それは] ― 本当に恐かったです。この当時ですから、網膜剥離ってなかなか治らないんですよ。名古屋大学病院というところで手術をしたんですけど。今でこそ網膜剥離はレーザーで簡単に治るんだけど、当時、僕が名古屋大学で初めてレーザーで治した実験台みたいになって。(笑) 初めて名古屋大学がレーザーを買って、慶應の先生が来て。[1960年、中盤ですよ。その頃からレーザーがあったんですね。そこで目が不自由な生活を強いられたということですね] ― 良くなりましたから良かったです。[そして、大学入学、アメリカ留学。そしてサラリーマンを経験されたということですが] ― その前に大学はね、日本大学芸術学部放送学科ですので、こういう政治の世界に入ったのは異端児なんです。[そうですね、日芸の国会議員ってあまり聞いたことがないですね。もちろん、作家さんとか舞台監督とかはいらっしゃいますけど。何を専攻されていたんですか?] ― 放送学科ですから脚本とか、いろんなことをやるわけです。本当に大好きで、大好きで、日芸に入れてその世界でやろうと思ったけど。[やはり映像が良かったのですか?] ― 映像とか映画とかね。今でもミュージカルをやりたいとかね。でも、才能が無いと諦めて、アメリカに飛びました。(笑) [そういうことだったんですね!本当に夢を追っていらしたんですね。それで今はバッチを付けて] ― ね、どういうわけかね。[そしてサラリーマンになって] ― メーカーに入りまして。[マスコミとかじゃないんですね] ― サラリーマンの世界に入って、オイルショックも味わいましたし。いろんなことを味わって。でもその苦労が役に立っています。どれだけ会社が潰れていったかわからないし、自分自身も売ったはいいけど、売掛金が残って回収できない。会社がしっかりしていましたから生き残ったけど。[今となっては貴重な経験ですね] ― 本当に貴重な経験です。[そして苅谷市議会議員が一番最初の政治のスタートということでしたね。平成7年に苅谷市議になられていて、私も平成7年に八王子市議になっていて。同期ということで。(笑) あの頃は無党派層が流行っていて、政党色が打ち消された、いわゆる政党政治が何回かの終わりのひとつだったんですね。その時は自民党で出られたんですか] ― いえ、無所属です。[あの時は自民党をみんな隠して、無所属で。(笑)] ― 隠してはいないですけど、その当時の市会議員さんは政党色を出さなかったです。[鈴木淳二さんが、名古屋で自民党で出るということはいつでもアウェイだとおっしゃっていましたね] ― 私の刈谷市という所も、元々はトヨタの町なんですよ。トヨタ自動車の第一号も苅谷で作っているんです。トヨタ紡織さん、豊田自動織機さん、デンソーさん、アイシンさん、みんな本社は苅谷にあるんです。イコール、簡単に言うと組合が多いわけです。なかなか凄い所で、その中でやる訳ですけどね。(笑) [なかなか自民党と言いにくいということで] ― 参議院の場合は地域、地域で応援してもらうので。[代弁者ということですね] ― 町の代表です。[そこから市会議員、県会議員、国政と行くんですが、ここに落選とありますね。(幸せ度数年表を指して)今まで何勝何敗なんですか?] ― 五勝一敗ぐらい。[県議会で落選されているんですね] ― 46歳でね。この時はですね、苅谷市議会議員を一期やって、途中で県会議員に挑戦をしていくんですけれど。たまたま、僕の上の先生がお辞めになるということで、酒井どうだということになって。じゃあ、やるかということになってやりましたけど。同じ自民党で相手候補が出て来るわけです。その相手候補は僕と親しい、同年なんです。彼と戦うんですけど、その上の先生の系統でつなぐとですね、酒井はもう勝てると。何もしなくていいというのがあって。自分自身は一生懸命にやっていても、そういう雰囲気になっていかない。[相手の自民党の方は受かったんですか?] ― 受かりました。定数が2ですから。定数2で3人が出たわけですから、もうひとりは組合系統で。[自民で、ワンツートップでいく予定だったのが、酒井さんは大丈夫と言われていてもその二番目の方が受かってしまった] ― 自民でワンツーはいかないです。民主系が強いので。民主がトップなんです。二人で一議席を保守戦で争うという。[それは絶対に割れますよね。ライバルになった同党の方と今でも仲はいいんですか?] ― 仲いいですよ、仲がよくて。[それが自民党はうまいんですよね。これが今の野党でしたら、末代まで敵の感じになりますけど。自民党はうまく軌道修正していくところがお家芸というか] ― 元々、仲が悪い訳ではないので。選挙になるとどうしても戦いというので、でも終わればノーサイドですよ。[そういうのをうまく乗り越えてきた歴史が今、政権与党だという感じがすごくしますよね。現野党だったら、そういうことがあったら、恨みに思っているでしょう。(笑) ] ― その時は209票差で負けたんですよ。次の時は250票差で勝ったんです。[県議選と言ったら市町村の選挙と違いますから、200票差というのは、もう何票の差ということですよね。それはもう、4年間、眠れなかったですようね] ― それが、(笑) 僕は能天気だから。それはすごく悔しかったですけど、不思議ですけど周りのみんながすごく動いてくれる、助けてくれるので精神的には楽でした。だから、有難いと思わなきゃいけないと思いましたよ。[落選していろいろわかると言いますけど、本当にそうですね] ― 何にもやることがないんだけど。(笑) あっちうろうろ、こっちうろうろ走り回るだけだけど。(笑) 本当に支えてくれて有り難かったですね。[2013年に初当選されるんですけど、次の参議院選挙に貴乃花が出るかもしれないとか、そういうのがあるじゃなういですか。タレント候補で有名な方がいたとか] ― 全然気にしていなかった。(笑) [それ位じゃないとだめですね。(笑) ] ― なんとか頑張って当選しないといけない訳だから。(笑) [オール愛知で戦ったんですね。愛知の隅から隅までですね] ― 県会議員をやっているから、みなさんが助けてくれるので。有り難かったです。[もう受かるなと、どれ位でわかりましたか?] ― それは最後まで、自分には自信がなかったです。みなさんがやって下さって有難いですよ。本当にそう思います。

 

●最近の政治トピックス

 

[酒井議員は一期目で内閣府の政務官をやられたんですね。大抜擢ですね!内閣府ではどんなお仕事をされていたんですか?] ― 私が担当した時には32の事案があったんですよ。科学イノベーションから防災から。ありとあらゆることをやりました。なぜかというと、私が内閣府の時に内閣の仕事を集約しようという方向があったみたいで、それにたまたまはまって。それで、僕が政務官を終わってから順番に各省庁に分けて行ったんです。[一気にいろんな懸案が来ていて時なんですね] ― 今の報奨制度とか迎賓館の件もそうでした。ありとあらゆる宇宙政策からね。(笑) ある意味では表面というか概略、でもすごく勉強になりました。[内閣府の政務官室に役人の方が来てレクチャーされるんですね] ― 順番にね、次から次へ。頭を切り替えるのが大変。[そうですね、宇宙の事をやっていたら防災をやらなくちゃいけない、ATやんなくちゃいけないとか] ― 本当にそうです。[内閣府は仕事が幅広いところですね] ― 広いですね。今はずいぶん、まとまってきましたけど。[苅谷市議会議員から自民党でやられていて、今、派閥はどちらですか?] ― 細田派です。清和会ですね。[永田町では、歩いていても何も怖くないところですね。(笑) やはり大きなところにいた方が、会社でも何でも楽ですから。(笑) ずっと市会議員からかわっていない一貫した政策というのはあるんでしょうか?] ― それはね、サラリーマンをやりましたんで。いろんな物を売ってきましたので、相手先、あるいは売ったところのことを見てきましたので。日本の経済という訳じゃないんだけれど、決して間違った方向に走らないようなことを、常に自分の中で考えながら。市会議員、県会議員の時も何も出来る訳じゃないんだけれど、市民や県民や国民のみなさん達に負担にならないように、という思いは強いですね。[今までの経済活動と違って、外国人が入って来たりとか、外国人が土地を買い占めてしまったりとか。そういう懸念がたくさんあるじゃないですけ。日本の中で競争していればいいという話ではなくなってしまっている。恐しいですね] ― 恐ろしいというか、本当に大変です。[特にメーカーの中心であるトヨタのおひざ元で、そこが例えばですけれども中国系になったりしたらどうなるんだということも、ありますよね。絵空事ではなく、本当に起きる危機感が迫っていますよね] ― 本当にそうですよ。自分たちの仲間でタイに行きましたけど、各企業のみなさんと一緒になって行ったんですけど、現場に行くと、トヨタグループとそこにあるサプライヤー、仕入れ先をまわってきましたけど、中国は脅威ですよ。もう凄いんですよ、攻め方が。中国は資金があるから、金のつぎ込み方も違いますから。それが国家政策でやってくるじゃないですか、中国は。[私たちが中国に行っても土地が買えないじゃないですか] ― はい、そういう意味ではいろんな政策を打って行かなきゃならないと思いますけど。[外国人に土地を買わせない、ある程度守るのは、今の勢いのある自民党しか出来ないんじゃないんですか] ― もちろんそうですけど、自民党というよりも、基本的に一番今の現象の中で大事なのは、人工減少して生産能力がなくなる訳だから。働く人がいないんですから。そうするとどうしても、外国人労働者に頼らざるを得ない。そうしないと日本はおかしくなっちゃいますよね。そこをこれから自民党の中でも部会内でも論議をして、外国人をどう受け入れていくのか。そこにはきちんとしたものを作っていかないと日本の安心という部分でも、治安という部分を含めて出て来る訳だから。それをやっていかなくてならない、といことはあります。それはそうなんだけど、根本は日本のこれだけの歴史があって、家族制度がある中で、結婚する人が少なくなっていったり。そういうことが悲しいなあと思うので、みなさんが結婚できるようにするには本当に何をしたらいいんだろうか、というところをちゃんと考えないといけないと、それが本当に一番重要なことだと思います。それは社会保障制度であるかもわからないし。でもね、それだけじゃないかもしれない気がする。[もっと他にある?] ― そう思いますね。僕でも昔の封建的な所で育ってきた人間だから、そういうものをある部分では受け入れなきゃいけないけれど、そこをやはり変えて行かなければならないんだろうと思いますね。さっきおっしゃったように、もう日本は日本だけで生きられないんだから。自分たちの娘や息子が青い目の人と結婚して欲しかったくらいだから。(笑) 結局、ダメだったけど。(笑) [可愛いお孫さんが出来るからですか?(笑) ] ― そうじゃなくて、孫たちも日本だけじゃ生きていけない訳ですよ。[言葉の問題もありますしね。そういうグローバルな問題は、今の安倍政権だったらきっと解決できるんじゃないですか。勢いがありますから] ― そこをじっくり考えてくれる総理だと思うし、あれだけ外国を走り回っている総理にはその感覚は肌で掴んでいると思いますよ。それは信じて疑いません。[どちらで奥様と知り合ったのですか?] ― 地元です。(笑) [何をされている時ですか?] ― サラリーマンです。[サラリーマン時代で良かったですね!市会議員だとなかなか結婚してくれる方はいないですよね。(笑) すみません。(笑) ]

 

●今だから言えるあの日のあの出来事

 

政治的な裏話はたくさんありますが、言えないですね。どうしてかと言うと、裏話と言うのは悔しい思いをしているわけ。何でこうなるんだろう?こうなったはずなのに、何でこうなっちゃうの?と。おかしくない?と。(笑) [自分が心から正しいと思っても民意を得なければね、だめなんですよね] ― そういうことって、いっぱいあります。それを政治の世界だから仕方ないという風に言っちゃうのは、あまりに悔しいよね。だから裏話というのはなかなか出来ないですけど、いろいろ考えたけど。

僕は日本大学芸術学部放送学科で芸術祭の放送学科の委員長をやっていたんです。その当時ね、学祭でストリップをやったの。[学祭でストリップですか?!凄い話ですね!] ― 芸術学部ですから、いわゆる浅草のストリップは芸なんですよ。その前の年も先輩がやったんです。委員長、どうする?というから今年もやりましょうよ、と後輩がみんな言うから、今年は少し恰好を変えてやろうと。タイトルがストリップじゃ当然だめなわけですよ、学校側が。いろいろ考えてあーだ、こーだやって。「浅草の日をもう一度」というタイトルにして、これでいきますと。どういうショーにするんだ?と。浅草駒太夫というおばちゃんがいるんですけど、いろいろやるんですと。裸になるわけじゃないんだろうな?いえ、なりません。という風にいって。浅草駒太夫というお姉さんは凄く、胸が大きいの。それを回すの、それが芸なんです。本当に凄いんだから。これは見せなかったら語れないと。ということで学校には言わなくてやったの。田中小実昌ってしらない?そういう人達を呼んでちゃんと議論するわけです。[さすが日芸ですね、ストリップは芸術なんですね!] ― 胸の回し方にしても踊り方にしても、横から見るか正面から見るか、芸としての話をするわけですよ。[今までのあの日のあの出来事の中で一番面白かったです!(笑) ] ― 浅草に行って出演の交渉をするわけですよ。それは楽しかったです。(笑) マーサ三宅のコンサートをやったりね。学校側とはお金の問題から、いろいろ合わないから大変ですよ。[結局、実現したのですか?] ― やりましたよ、みんな。[ストリップも?] ― もちろんやりました。超満員ですよ。日芸にはそういう自由さはありますよね。[芸術かエロか、というところで議論されたりとかね。そこが燃えるわけですよね、学生さん達は] ― そうです。[今の時代だったら有り得ないですけど、その時はぎりぎりオッケーだったんですね] ― 全部裸になる訳じゃないから、ちゃんとした見方をすると凄いなと思う訳ですよ。みんな最初はワーッと騒ぐんだけど、議論になっていくとみんな真剣になって。学校とはいろいろやりましたね。[今も性のことでいろいろ議題がありますものね] ― あります。[昔は良かったけど、今はだめというのがたくさん] ― いろんな経験をさせてもらうのは有難いですし。僕はアメリカにも行けたから、出来るならば若い人にどんどん海外に出て欲しいと思いますね。[私も二十代で見たニューヨークともうちょっと大人になってから見たニューヨークでは全然違うものなんですよね。パリもそうですし。全然違うんですよね、感じるものが] ― 本当にそう。若い時は平気でどこでも行けるんだよね。[今はどこに行っても代わり映えがなく思っちゃうんですよね。自分の心の問題だと戒めているんですけど。私もその学祭に参加したかったです!おっぱいの回し方って凄いですね!] ― 本当に凄いんだから![洋服を着ながらやるんですか?] ― 着物の上を取る訳ですよ、はい。それ以上やらせないで。(笑) [当時の学生だったら真剣に議論して考えたでしょうね。芸術とエロの境は紙一重ですからね] ― あの当時は渋谷にも劇場があったし。[ドリフターズで毎週、そいうシーンがありましたからね]

[「みわちゃんねる」はどうだったでしょうか?] ― 佐野さん、上手ですよね。うまく引き出して下さって、助かりました。(笑)

グローバルという言葉で言うと簡単なんだけど、ここにいらっしゃる皆さん、報道ということで言ったら、日本だけの報道じゃないもんね。世界の皆さん達と話をしながら、報道をやっていかなきゃいけないと思いますよ。大変な世界になるだろうなと思います。その中で日本という国がどういう国になっていくかというのを外国の人にちゃんと言って欲しいなと思います。[歴史の継承はぜひともしたいですよね] ― そう。皆さんに頑張って頂いて、駐在で希望を出して海外に行った方がいいよ。海外に行ってどんどんいろんな物を見てきた方がいいです。若い時に言った方がいいと思います。