伊佐 進一
伊佐バスト
第154回
2015年05月20日 放送

公明党 伊佐 進一 衆議院議員

『会いに行ける国会議員 みわちゃんねる 突撃永田町!!

USTREAM akasaka plus』

第154回のゲストは、公明党 伊佐進一  衆議院議員でした。

子供の頃、難病を患いましたが奇跡的に快復。東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、科学技術庁に入省。

文部科学省宇宙開発利用科では、小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトを担当。

予算を付けるため財務省に「営業」に激しく通い「もう伊佐さん来なくて良いから」とまで言われ、みごとプロジェクト決行!

その後、北京で3年間外交官。子供の頃から外交官になりたいという夢がありましたが、宇宙への夢が優先して科学技術の世界に、しかし見事にもうひとつの夢も決行!!

「夢を諦めてはいけない」と伊佐議員は強く語ります。

現在2期目の伊佐代議士は、安全保障や地元の様々な問題に奔走しています。

(動画より文字おこし)

公明党 大阪6区 2期目(2015年5月20日収録時点)

[伊佐議員は大阪6区ですが、先日大阪都構想が否決されて。公明党さんはどういうスタンスだったんですか?]―我々は反対でした。ただずっと懸念していたのは、ひとつの課題で大阪が二分されて、一致団結が乱れて、日本全国アベノミクスで良くなっている中で置いていかれるような…これはあっちゃいけない、と。でも、今回これで決着がつきましたので。賛成でも反対でも共通しているのは、今の大阪のままじゃ駄目だと、やっぱりもう一歩ちゃんと変わってくれと、そういう思いは多分どちらにもあると思いますので。これからはいよいよ党派を越えて、皆で一致団結して、大阪をしっかりと盛り上げていきたいなと、そう思っています。[部外者だから敢えて言いますけど、ここで何で変えなかったんだろう、って]―あ~…。でも、変わらなきゃいけないのは事実なんですよ。それをどう変えるのかというのを、しっかりとみんなで…[橋下案は違う、と]―我々は反対ですから。[(橋下案の)全てにおいてですか?]―もう少し丁寧な議論をしていかないと。ただ、各党、支持者の中でも賛成・反対割れましたので、そこに見えるものは、いずれにしてもズルズルと行っちゃ駄目よ、ということだと思います。[だって1万400票差でしたっけ?僅差じゃないですか]―確かにおっしゃる通りで、賛成した方々の票は実現しないわけですが、ただだからといって無効だったという風にしちゃいけないと思うんですね。これをしっかりと我々は受け止めて、だからこそ変えていくためのエネルギーにしていきたいな、と思います。[大阪の方は「商売が良くない」と言うんですよ。だったら、ああいう改革者が出てきた時に上手くのれば良かったのでは、と部外者は思ってしまう]―そういう意味では、色んな動きを通じて、政治に対する思いとか、あるいは今の行政組織に対する考え方とか…大阪市民の皆さんの中でも色々議論があったという事が大事だな、と思っていますので。[もうちょっと長く議論して欲しかったですね]―それはありますね。今回あの案でいきなりやるよりも、もっと議論も有り得たんじゃないかと思います。[注目すべきは、反対していた公明党さんや自民党の戦術の上手さですよね]―そうご覧になりますか。我々は、戦術というよりも思いをどうやって訴えていくか、というところに必死で、あまり実は考えてなかったと思いますよ。いずれにしてもこの結果を、勝った・負けたという風にとらえちゃいけないと思うんですね。[大阪も今世紀ラストチャンスだったかな、と思っていたんですが]―いえいえ、これから始まるんですよ(笑)。[失礼ですよね、わかりました(笑)。さて、伊佐議員と宇宙の関係とは?]―もともと大学で勉強したのが、航空宇宙工学科だったんです。[皆さんどこか知ってます?東京大学ですよ?]―それも実はいきさつがあるんですよ。[裏口入学とか?]―いやいや(笑)。外交官になりたいな、と1週間だけ思ったことがあって。3年生のセンター試験の直前なんですけど。もともとずっと理系できていたので、先生にも親にも「今から文系に転向したい」って言ったらえらい怒られましてね。「理系で受かるかもわからんのに、まずはしっかりと理系で勉強せえ!」と言われて理系で勉強して、それでもやっぱり外交官という夢はあって。うちの大学の場合は、成績が優秀だとトップ1人か2人ぐらいは法学部に転向できるんですよ。大学1、2年の間一生懸命勉強して成績はそこそこ良くって、いよいよ法学部、となったらそこまでは全然足らなかったので、それであれば一番名前の格好いい航空宇宙工学科へ行こう、と。格好良さそうじゃないですか?[すごい格好いいですよ。何人ぐらいいらっしゃるんですか?]―当時70人でしたかね。[それはやはり宇宙飛行士になりたいから?]―宇宙が大好き、ロケットが大好き。ロケットを作りたいとか、周りにそういう人がたくさんいたわけですよ。私はそんなミーハーな気持ちで入ってしまったから、ものすごく苦労するんです。みんな優秀なのに私はそうでもなかったので…。航空宇宙工学科へ行った人は、大体は当時のNASDA、今のJAXAですね、そこに一番優秀な人が行って、あとは三菱重工とかメーカーに行って。大体みんな院に行ってからそうなるんですけど、私の場合はもう院にも行かれへんと思って、それで役人になったんですよ。

● 「幸せ度数年表」

(クリックで拡大)

第154回伊佐進

 

[1974年。どちらでお生まれになったんですか?]―兵庫県宝塚市です。[難病にかかった?]―4歳の頃に。治らない原因不明の病気で。足の軟骨が溶けていく病気なんですよ。今でも原因や治療法が確立されてなくて。生涯ずっと足を引きずらなきゃいけない、という病気で、両足ともギブスで足首まで完全に固定して、鉄パイプを足の間に通して動けなくして、これで1年間過ごしたんですね。夏場は中が汗だくになって痒いんですよ。でも掻けない、本当に辛い思いをしましたが、奇跡的に1年で治っちゃったんです。[えー!?何という病気ですか?]―ペルテス病という病気です。10万人に5人、と言っていました。[ご兄弟はいらっしゃるんですか?]―妹が一人います。[長男でそういう病気になられて…。お母さんもびっくりしたでしょうね]―その頃は本当にお医者さん、看護師さん、周りの方々に助けていただいて。こうやって人の命を助ける、というのはすごい仕事なんだな、と思いましたね。[痛かったんですか?]―痛みはあまりないんですよ。歩き方がおかしい、というのでわかって…。当時地域の方々がものすごく応援してくれて、いっぱい助けてくれましてね。奇跡的に1年で治ったんです。[すごいですね~…。で、こちら(幸せ度数絵年表)は「中」と書いていますが…]―これは中学の「中」なんですけど、なんで四角で囲っているかというと、麻雀パイの「中」なんです。なんで麻雀パイにしたかというと、中学校の頃麻雀ばかりしていたんですよ。普通大学でやるじゃないですか。徹マンを中学の頃ずっとやってて、大学に入ったら今度は将棋になったんです。地味な大学生でした。高校は、いよいよ受験生として頑張らなきゃいけなくなったので(幸せ度数が)ちょっと落ちてるんですね。[大学(東大)は現役で合格。すごいですね、どういう学生時代を送ればこうなれるんですか?]―一人暮らしをしたい、というインセンティブがものすごい強かったんです。両親が「そんなもん関西の大学にしておけ、わざわざ東京になんか行くな」と。「東京行くんやったら、東大だったら東京に行ってもええで」と言ってくれたので。[どんなご両親の家だったんですか?]―父親は製薬会社で働いていまして、営業をずっとやっておりました。母親が看護師だったんです。[そして、東京大学の航空宇宙工学科。聞いたことがないんですよね]―そうですね、確かに航空宇宙工学科と名乗っている大学はあまり多くないみたいですね。九州と東北もあったかな?[じゃあ宇宙プロジェクトなんかみんな知り合いだらけでしょうね、きっと。で、ここ(大学在学中の幸せ度数が)MAXきてますね]―これはちょっと…初恋をしたんです(笑)。[別に宇宙工学とかじゃなくて、初恋(笑)]―初めて彼女が出来て、ものすごい有頂天になって。[どんな彼女なんですか?]―違う大学の彼女でして…。[どこの大学ですか?]―あの~、まあ、あの~、色々ありまして(笑)。妻も観てるかもしれませんからね(笑)。[それまでは彼女がいなかった?]―そう、ずっと男子校だったんですよ。[そして、文部科学省に入省される]―とにかく働かされましたね。[航空宇宙工学科を出られて役所に入るということは、決断があったわけですよね?]―そうですね。周りに本当に優秀な皆さんがいて、自分が研究者になってその道を進むよりも、その優秀な人たちを支える方がええなあ、と思ったんです。支えて、その周りで制度を作ったりとか予算を持ってきたりだとか、そのほうが多分性に合ってるな、と。[じゃあ、やりたいことがあって入ったんですね、宇宙開発プロジェクトに携わりたくて]―そうですね。ただまあ、文科省といっても広いですので、宇宙だけじゃなくて原子力もあれば、バイオサイエンス、ライフサイエンス、教育もありますね。スポーツも文化もあるし。その中で、宇宙ができるとは限らなかったんですが、ただやっぱり行政に携わりたいという思いはあったんですね。[(文科省時代は幸せ度数が)落ち込んでいますね、かなり]―ものすごく、私生活なく働きました。若手は色んな仕事もありましたし、当時科学技術がちょうど盛り上がっていく時でしたので。前向きな仕事は確かに多かったですね。[そして、アメリカ留学。9.11に遭遇された、ということですか?]―そうなんです。実は、授業の初日が9.11だったんですよ。私、ワシントンD.Cに留学していまして。飛行機がワールドトレードセンターにぶつかって、あとペンタゴン(国防総省)にも落ちたんですね。私のアパートが、実はペンタゴンのすぐ隣やったんです。[えーっ!?]―朝起きたら日本の両親から電話がかかってきて「あんた大丈夫か?飛行機の事故あったらしいで」と。「大丈夫や、大丈夫や」って電話を切ってパッと戸を開けたら、煙がものすごくあがってるの。[そんなに近かったんですか!?]―えー!?なんやろ、と思いながら、とにかく学校へ…初日ですから遅れたら駄目なので、自転車で行ったんですね。そしたら「これ以上一歩も出るな」と言われて学校の体育館に閉じ込められて。みんなでテレビの画面で見ていると、不幸なことに崩れていって…。それがスタートでしたので。[何年いたんですか?]―2年間です。その間、色んな勉強もさせてもらって、その時に中国の研究をずっとやっていたんですね。中国関係をライフワークでずっとやりたいと思っていたので。[中国の何をですか?]―中国の、主に経済をやりました。いずれ自分で中国には必ず行く、と決意していましたので、その前に、アメリカ人が中国をどう見てるか、というのを知りたかったんですね。[どう見てるんですか?]―その時の私の結論は…アメリカが色んな提言を出していますが、結局この時の中国に対する提言はほとんど当たってないな、と思いました。アメリカが中国をどう考えているか、当たってないのが多かったんです。[当たってないって?]―例えば、中国の労働者の賃金は絶対上がらない、と言われていた。なんでかというと、農村部が広くて9億人もいるので、どんなに投資が増えて中国の経済が盛り上がっても、足らない労働者はどんどん農村から来る。だから賃金が上がることはないんだ、と言われていたんです。それが、今はどんどん賃金が上がっているんですよ。この当時、アメリカもそこまで予見できなかった、ということだと思いますね。アメリカも中国をどう見るか、というところで、本当に確立したものがないんだな、ということを学んできた。それだったら自分の目で中国を見なきゃ駄目だ、という思いが更に募ってきたんです。[そして結婚、ですね]―日本に戻ってきまして。思いが叶って、最終的に中国に赴任することになるんですが、その前に結婚しました。[結婚時の幸せ度数、低いですよ(笑)]―いえ!結婚によって上がったんです(笑)。[中国には何年間?]―3年間。北京の大使館に赴任しまして。[じゃあ、結局外交官になれた]―そういうことなんですよ。[結局夢は叶いましたね。すごい人ですね!]―色んな機会に子供たちに話すこともあるので、「ずっと思ってやれば、いつか行けんねんで」と。自分でも感動しました。日中関係の本当にいい時に行かせてもらったんですよ。2007年から2010年。2008年には北京オリンピック、2010年は上海万博もありましたしね。私は中国の科学技術とか物づくりを3年間見てきたんですね。中国は特に宇宙をものすごい頑張っているんですよ。オリンピックや、国家建設何周年記念とかいう時に、例えば人工衛星を打ち上げたり、あるいは有人宇宙飛行…日本はやったことないんですよ?そういうことを中国はやったり。国民の皆さんを見ていると「中国もまだまだ頑張れるんだ、もっともっと上に行けるんだ」という思いが広がっている、そういう時でしたね。[ということは、英語、中国語、喋れるんですね]―でも語学力って、使ってないとどんどん落ちていくんですよね~。英語の方がまだ使う機会はありますけどね。[頭がいいから、すごい喋れるんでしょうね]―…という風に見られるところが辛いところですね(笑)。[だって仕事で行っているわけですから。語学学校も行かれるんですよね?]―いえいえ、それは通わせてくれなかったんです。通常は語学研修というのがあるんですね。ところがうちの役所は「自分でやれ」と。自分で頑張って勉強して行くのが赴任だ、と言われまして。[文科省は厳しいんですね]―文科省は厳しかったですね。赴任しながらも語学の勉強はずっとしていましたけどね。[…(幸せ度数年表を見て)この「出版」というのは?]―そうなんです。私の書いた本を持って参りました。宣伝しておこうと思って(笑)。これは、日本と中国がどうやって、物づくりとか技術関係でWin-Winの関係を築けるか、というのをまとめたんです。そしたら結構売れまして。1万5,000部。[そんなに売れたんですか!]―売れたんです。そこそこ印税も入ったんです。でも選挙でなくなりましたけど(笑)。中国・技術という観点で書いた人がなかなかいなくて。ちょうどニッチなところで良かったんだと思いますね。[楽しみですね、読ませていただきます]―ところが残念ながら、今はもう絶版になっておりますので…。[絶版?どうしてですか、そんなに売れたのに]―中国の世界って移り変わりが激しいですから、どんどん新しい本が出てきますので。ただ、移り変わったとしてもこの書かれた内容は今でもしっかりと生きていると思っております。そして中国赴任から日本に戻ってきて、役所でまた働くんですが、その時に「選挙に出ないか」とお話をいただいて…。[それは公明党本部から?電話がかかってくるんですか?これ、皆さんに事情聴取させていただいているんですけど(笑)]―ある日突然に、党の代表から電話がかかってきまして。[太田さんですか?]―当時は山口代表でした。もうびっくりしますよ。「どちらの山口さんですか?」みたいな(笑)。[(山口代表とは)面識があったんですよね?]―山口代表とは直接面識がなかったんですよ。ただ公明党の議員の方で、知っている方はいらっしゃったので。公明党の議員の中で、この本が話題になってたそうなんです。こんな私で良ければ、と申しまして…。[断れないものなんですか?]―いやいや、そんなことはないですよ。[断っている人もいるんですか?]―わかりません、いると思いますけどね。そのプロセスには関わったことがありませんので(笑)。ただまあ、当然それぞれの人生でしょうから。[…今日は自転車で来られたんですか?]―自転車で来ました。[自転車で「みわちゃんねる」に来られた国会議員って初めてですよ]―私ね、国会議員になった最初は議員宿舎に入れなかったんですよ。[どうしてですか?]―まあ、「若いから我慢せえ」という話になって…。(部屋が)足らなかったんです。それでちょっと離れた所にアパートを借りて住んでいたんですよ。そこからずっと自転車で通勤していたので。今は宿舎に入ったんですが、その名残で今でも動くのは大体自転車が多いですね。

●最近の政治トピックス

[またどうしても聞きたいんですが(笑)。大阪都構想が否決されたということで。あれはどういう風に変わる予定だったんですか?]―大阪市を5つに分けて、そのひとつひとつにしっかりと議員の選出をしてもらって。区議会議員というのができて、区長も選挙されて、というものです。[選挙制度対策だけなんですか?]―勿論財政も変わります。[どういう風に変わるんですか?]―これは色んな議論がありましたのでね…。基本的には、市が政令指定都市として今まで持っていた税収は府に移管されますので、府のお財布に一回入って、そこから市に配られる、というものです。[懸念されていたのが、二重行政。その問題はどうなるんですか?]―いずれにしても、賛成だって反対だって、二重行政賛成という人はいないわけです。二重行政はやっぱり何とかせなあかん、と。そういう意味では、本当に二重行政になっているのはどこなのか、という議論もしっかりやらないといけないですね。[議論と言っても、盛り上がるものなんですか?保守的なものが勝ってしまった、ということは…]―まあでも、さっそく新しい構想に向けて、今動き出しましたからね。[今日の新聞かニュースで、橋下市長と自民党・公明党と一致したものがあったと出ていましたが、それは?]―都構想自体は今回やらないという事になりましたので、次は少なくても今ある二重行政を解消しましょう、と。そして、住民にとってより良いサービスが受けられるような「こういうものをやっていきましょう」という案は選挙期間中にも提出していましたので、これを一回しっかり議論していきましょう、と。[議論して何か進むことがあるんですか?]―これだけ多くの皆さんが関心を持って、国民を巻き込むくらいの大きな議論になりましたからね。これ、やらないわけにはいかないですよ。[大阪が好きだからショックだったんですよ。ここで変わってほしい、というのがあったので…]―なるほど。でも、変わりますよ。変えていきます。[伊佐議員が永田町でやられている、中央の仕事を教えてほしいんですけど]―主に所属してやっているのが、安全保障委員会なんです。[公明党が大事な立場ですよね]―そうですね。まず与党の中でしっかり歯止めをかけていく、と。日本が「武力行使をするために海外には行かないんだ」という前提で閣議決定したわけですから、それがしっかりと守られるように、法律の細かいところまで見ていきましたね。勿論これから国会の審議の中で、野党は野党で様々な歯止めについても議論していただけると思っていますので。うちの党の良い所は、重要なテーマになると、党内論議に対して党の議員が全員参加OKなんですよ。1年生議員でも、全員に発言の機会が与えられる。非常にフラットな世界だと思いますね。[すごい議論なんでしょうね]―特に安全保障や憲法の世界は、「こういう日本を作らなきゃいけない」と皆それぞれ思いがありますので、もう本当に激しい議論になりますね。[派閥はできないんですか?]―もともと結党した時に、我々には決め事があるんですよ。派閥ができたら解散、こういう決め事があるんです。[安全保障委員会の他は何を?]―社会保障。厚生労働委員会なんです。主に安全保障と社会保障が、国会の議論の論戦の中での仕事です。[両方とも大事なものですね。これから社会保障費がかさみ過ぎて、どうなっちゃうんですか?]―そうですね。少子高齢化がどんどん進んでいる中で、とにかく日本が立ち行かなくなる状況をなんとしても避けなければいけないので。消費税を安易に上げていい、という話ではないと思いますから、そこは国がどんどん成長するような形を作ることで、だいぶ社会保障も回っていくんだと思いますね。[(社会保障費が)増える一方じゃないですか]―医療の保険料って上がっているんですよ。医療の保険料の財政って、ものすごく厳しいんです。でも、経済の発展が1%変わるだけで、赤字と黒字一気に変わるんですよ。1%の成長でものすごく変わる。それくらい、経済成長って社会保障にとっても大事なんです。国の経済の発展は誰しも思う事ですから、成長戦略って大事なんですよ。今回、厚生労働委員会でかかっている法案の数ってものすごい数なんです。我々は、とにかくまず現場の声が大事だと思っていますので。勿論色んな役所や厚生労働省に話を聞いたり、あるいは団体に話を聞いたりもしますが、とにかく現場の声を聞こう、と。先輩に教えてもらった言葉で、「調査なくして発言なし」という言葉があるんです。つまり、現場の調査せずに発言するな、と。現場の声を聴いて、そこに沿った政策を作っていく、ということをしっかりやっていきたいと思いますね。机の上で政策を考えるんじゃなくて、相手の誰かが声を上げてくれるのを待つんじゃなくて、自分から行って色々声を聴いていく、ということです。

●今だから言える、あの日のあの出来事

―宇宙の話です。私がやった仕事のひとつで、人工衛星「はやぶさ」。[誰が乗ったんだっけ?…誰も乗ってない(笑)]―乗ってないです、みんなの夢は乗っていましたけどね(笑)。[ナイス・フォロー!(笑)]―夢を乗せて遠い所まで行って、戻ってくるときに満身創痍になりながら、エンジンが止まって制御が止まって全部が止まる中で、最後の最後、研究者の熱意と努力で地球に帰ってくる、というあの話ですね。私はあの頃、「はやぶさ」の予算の担当をしていたんですよ、文科省で。ところが財務省は、「そんな帰ってくるかどうかわからんような衛星には、お金つけられへん」と。「とんでもない、国民の血税を」と。ただ私は「はやぶさ」の研究者の皆さんの熱意というか、何としても帰すんや、という思いをずっと見て来たので、その人たちの前で「予算とれないからプロジェクト解散!」って言えないじゃないですか。だから財務省に何度も通うわけです。でも向こうもそんなに相手に出来ないわけですよ。それでも何度も何度も足を運びまして、最後は出入り禁止というか、「この件では伊佐君、来るな」と。ところが、年末の財務省が一番忙しいときに、また行くわけですよ。もう一回「はやぶさに予算つけてくれ」って言ったら、財務省が何て言ったかというと…。「わかった!予算つけるから、頼むから来んどいてくれ!」と。予算がついたんです(笑)。で、「はやぶさ」に予算がついてプロジェクト続行が叶って。だから最後地球に帰ってきたときは本当に感動したわけです。[伊佐さんの行動が凄い! 「はやぶさ」が帰ってくるよりも(笑)]―こんな大きな話になるとは思わなかったんですよ。「はやぶさ」の映画が3本出来たんですね。プロデューサー含めて、私に色々取材に来たんですよ。「伊佐さん、はやぶさの裏話してくれ」って。私も映画に出れるんちゃうかと思ったんです。残念ながら面接で落ちまして。いや、冗談ですけど(笑)。[でも「伊佐」役がいたんじゃないですか?]―それが…伊佐役が悪役だったんです。[会場内「え~!?」(笑)]―3本あるうちの1本は、役所が悪い人だったんです。[どんな映画ですか? 観なくちゃ]―ひとつは渡辺謙さんが出た…あれが一番ヒットしたのかな。[「はやぶさ」の予算って、どれくらいだったんですか?]―そんな、たいした予算じゃないんですよ。いくらだったかな? 「はやぶさ」がもし砂を掴んで帰ってきたら、その砂を分析するための機会や設備が必要だったんです。それがまあ、そこそこかかるんですね。「掴んでるかどうかわからんのに、予算つけられへんやろ」というのは、それはそれでわかります。でも、掴んでるかもしれないし、帰ってきた時にその設備がなかったら、研究者の熱意が無駄になるじゃないか、と思って。[…で、いくらぐらいだったんですか?]―(笑)はっきり憶えてないですね。数十億、数百億のお金じゃないです。まあ、数億か数千万か。もう衛星自体は出来て飛んでいますからね。あとはその運用費とか実験のお金とか、そういうものです。[やはり伊佐議員の夢は、宇宙へ行くことなんですか?]―私ね…宇宙に行くのは怖いです。人に行っていただいたほうがいいな、と(笑)。

●質問コーナー

Q : 宇宙産業や宇宙ビジネスについて、何かお考えがあればお聞きしたいです。

A : 宇宙って、「何のためにやるんだ」ってよく言われるんですよ。宇宙に行くことが目的なんじゃなくて、勿論宇宙に行って、若い人たちに夢を語る、というのも大事だと思うんですが。「宇宙」という観点で、実は色んなイノベーションがありまして、その経済波及効果、産業の発展、あるいは宇宙で色んな実験をすることによって、例えば新しい薬を作る、治らなかった病気が治る。あるいは安全・安心。人工衛星から被災地を見て「こういう所にもっと物資を渡さないといけない」とか、「こういう所が大きな被害を受けている」とか。色んな観点があるんです。そういうものの発展の可能性を秘めているのが宇宙だと思っていますので、そういう意味では、ひとつの方向性だけで宇宙が発展することは不可能なんですね。今までは、日本の宇宙というのは国主導でやっていたんです。文部科学省、JAXA、経済産業省。ところが、それではもう限界にきていまして、いかに裾野を広げていくか、なんです。今回の「はやぶさ」だってそうですよ。中小企業の皆さんがつくった部品が、あの「はやぶさ」をつくっているわけですから。いかに裾野を広げていくかが非常に重要なんですね。あとは、さっき申し上げたように利用の側面。宇宙を使って、防災・安全・安心をどうやっていくか。こういうことをしっかりやらないといけないな、と思います。[よくNASAの公認で商品が出ていますが、ああいうのってどうなんですか?]―あれは、宇宙のために開発した技術が、実は我々の日常生活で使えるじゃないか、という技術なんですよ。例えば、宇宙ってお風呂に入れないじゃないですか。そうすると同じ服をずっと着なきゃいけない。だから、抗菌で臭いがあまりつかないような清潔な下着。こういうのを今売ってたりするんです。[NASAで考えたんですか?]―あれは日本のメーカーだったと思いますね。東レです。[裾野を広げると言っても、町工場で宇宙のものをつくっても、なかなか売れないんじゃないですか?]―そうです、だから宇宙産業を広めていかないといけない。今、日本で1年間に打ち上げるロケットは3機か4機なんです。これが中国だと十数機打ち上げているわけです。[それは市場が増えますね]―そういう宇宙利用をどんどん広げていくと、宇宙をやろうという中小企業も増えてきますよね。

Q : 大阪都構想で色々ありましたが、地元の人間としては、財政を含めてこれから大阪はどうなっていくのか気になるところです。伊佐さんの財政面の政策をお聞かせください。

A : 今の大阪を見ていますと、何が原因で大阪が飛躍できないのか、具体的なところをしっかりと見ていかないといけないんじゃないか、と思うんです。例えばリニアモーターカーで盛り上がっていますけど、名古屋までしか行かない。大阪まで来ないんですよ。新幹線だってそうです。東京―金沢が開通して、金沢の人はみんな東京へ行ってしまう。じゃあ金沢―大阪間の新幹線はどうなっているかというと、計画すら固まっていないわけです。[大阪は、取り残され感がありますね]―そうなんです。ひとつの大きなビジョンも大事です。大きな行政機構も大事ですが、それだけじゃなくて一つ一つの課題にしっかり向き合って解決していくのが、遠回りに見えて一番着実な道なんじゃないかな、と私は思いますね。