伊藤 忠彦
itou先生
第106回
2014年02月19日 放送

自民党 伊藤 忠彦 衆議院議員

委員会では答弁者の立場。安倍内閣の一員として活躍されています。
電通マン→議員秘書(武村正義氏・小渕恵三氏)→県議→国会議員という経歴をお持ちです。

(以下動画より文字おこし)

自民党 愛知8区 2期目
総務大臣政務官兼内閣府大臣政務官

(内閣閣僚から来たという事か)―そう。安倍内閣の一番端っこの方にいる一人の政府の者という事になる。(政務官ですよ!)―宜しくお願いします。(政務官は委員会では答弁もする)―そう、答弁を求められるので今までの経過とか経緯とか、ただ自分の考えを申し述べるだけでは進まない事になるので、そこは非常に責任のある立場という事になろうかと思う。(自分の考えを通すだけではなく?)―それはやはり非常によく考えなければならない処だと思う。(伊藤代議士は83会)―そう。(小泉チルドレンと呼ばれた83人の一人)―そう。(大臣にすぐなられたりした方もいる。政務官というのも出世コース)―いや、出世かというのは別として、政治家として年月を積んで色々なポジションを頂いて仕事を覚えていく上では一つの通過点としてある職席だと思う。(地元の愛知8区はどんな所か)―私の選挙区は全部で四市五町あり、知多半島という半島で、一番南の端にある南知多町という所には離島が二島、日間賀(ひまか)島と篠(しの)島という島があり、そこまで全部私の選挙区。中部国際空港という空港があり、まさに中部圏の空の玄関口も私の選挙区の中にあるという事。

●幸せ度数年表

(ダブルクリックで拡大)

第106回伊藤忠彦

(1964年生まれ、東京オリンピックの年に生まれた)―はい。(オリンピックを人生で2回経験される事になる)―不思議な事だが東京オリンピックで日本の選手団が行進して入って来るのを見ているわけがないが、見ていた様な記憶がある。(テレビで見ていた?)―だと思う。仰った通り2020年のオリンピックで2回目を経験する事ができて本当に幸せな事だと思っている。(生まれは地元の?)―愛知県名古屋市。そこは代々400年近く、私の家族は織田信長が清州にいた時に商いをしていて…清州会議の。そして清州から加藤清正が名古屋城を築城するのであそこに城下町を作って商いをする場所を作りなさいと言われて清須越えの商人として出て行ったのが私どもの家系。私は17代目の新家、私には兄貴がいるので。私の兄が17代目になるので、その新家になる。(どういう商いをしていたか)―一番最初、味噌、醤油、最終的には米を扱って、新田開発をして濃尾平野というが、穀だかを上げて御用商人として名古屋城に納めるという事を家系としてはやって来た。私の家の前に堀川という川があり、今でこそ少し澱んでいるが昔はこれで名古屋のお城に、いわゆるお堀に水を入れるわけだが、それがその後は運河の役目をして物流になって、それで広く尾張から全体に物を運んでいく、これを使って私の家も含めて皆が商いをしていたという事。(お父様が頭取との事)―亡くなって今年で13回忌になる。(東海銀行の頭取)―でした。(頭取のご子息として生まれたのか)―決して最初から頭取だったわけではないので、私が社会人になってから頭取になったので。父は父としての人生を頑張ったのだと思う。(勿論メインバンクは三菱UFJか)―(笑)いくつかある。(「幸せ度数年表」に「いろんな事しました!」と書いてあるが幼少時代という事か)―それもあるが、これは卒業まで書いてあるが、大学の3年、4年、5年…5年間行っていたので5年位に、是非世の中に出たら活躍する人間になりたい、どんな職業かは別として。当時インタースクールで、勉強会をするはしりだった。そんな事を当時慶応大学の方とか東京大学、一ツ橋大学、様々な大学の人達と、段々人も増えて100人近い人達が和気あいあいと一カ月毎に勉強会をして、そこの中からも随分国会議員も出たりして。民主党で言うと近藤洋介君、長島昭久さん、我が党で言うとその当時私のところのメンバーというわけではないが何度も何度もお会いして色々な事をしたのが河野太郎さん、それから浅尾慶一郎さん。皆仲間でやっていた。(早稲田大学を卒業して電通マンになったが、電通が一番良い時代)―その通り。(上場前の一番おいしい時。今はおいしくない(笑))―(笑)今も充分おいしい電通だが、当時私としては有難い会社に入ったと思った。(配属はどちらか)―私は最初とにかく地元に戻って政治活動と思っていたので、本社に入社して直ちに名古屋支社勤務を希望して、そして名古屋支社に配属になり中日新聞を担当する。ところがそこから一年位でまた東京に行きなさいと言われ、営業になって、辞める28歳の前の27歳から28歳にかけて、ちょうど郵政省を担当する営業になる。その時の郵政大臣が小泉純一郎さん。飯島さんという秘書官と出会う事もできて、今でこそ皆パソコンを使っている…ICTとか言う、総務省ICTもちゃんと所管しているが、最初の言葉と言うのは「次世代通信網」という名前だった。この次世代通信網というものについての郵政省としてのパンフレットとかDVDとかこうしたものを最初に手がけさせて頂いたのは私ども。(電通だが悪い言い方をすれば省庁の出入りの業者だった)―仰る通り(笑)。(出入り業者から見た小泉首相、飯島秘書官はどうだったか)―むろん小泉さんと出入り業者の末端の若い社員が話せるはずがないので…(小泉さんで予算が増えたりという事は?)―そんな事は全くなく、ただただ仕事は一生懸命させてもらったが、その当時は非常に勉強になった時期。広告代理店に行って良かったなと思うのは今この政治家の仕事もコミュニケーション…今これをやっている事でコミュニケーション。やはりコミュニケーションする事についての様々な角度からの勉強をする事が出来たのは現場でもあり、会社でもあり、厳しさもありそしてまた楽しい事も色々経験させて貰う中で電通は良かったと本当に今感謝感謝。(普通の人では経験出来ない事を)―やらせて頂いた。(元々政治をやりたいというのはどういう事だったのか)―私は家系的には商人(あきんど)だから商人になろうと。しかも小学校の頃か「油断」という堺屋太一先生の本を読んで、そうか日本は油が大事なんだと。油を取り扱ったら世界の誰しもが「僕だ」と言う位の世界に行ってみたいと思って、まずそうする為には覚えて貰わなくてはいけないから、ここはちょっと電通チックだが、「伊藤忠商事」の「伊藤忠彦」。そうすると「伊藤忠と伊藤忠、これでいいぞ」みたいな世界で、その為には福沢諭吉先生の大学に行きたい、兄も福沢諭吉さんの高等学校から行っていたので同じ様に行ってみたいと思って受験の勉強をしてみたらコロッと落ちてしまって、それで早稲田大学高等学院という学校にだけ受かる。なんでこんな学校に来てしまったのだろうと思い悩みながら目標の喪失感に苛まれて高校時代に色々考えているうちに、「そうか僕はもしかしたら世の中の為に政治の世界で頑張るという事を与えられた使命として勘違いすればこれでいけるかも知れない」と。最初はそれが本当かどうか分からない…15歳元服のみぎり。それ以来ずっとそれだけで扉を開けてみた。そしたら本当に最終的には国政にまで登って来る事ができた。(15歳の時から伊藤忠を知っていた?)―もっと前から何となく…(名前が同じだからと言う方がいた?)―そう。(電通は6年で退職し武村正義さんの秘書になる)―新党さきがけという政党があって、丁度細川内閣が出来て官房長官になっておられた武村正義先生の秘書として拾って欲しいという事でお願いをしに行った。(縁故があって?)―ご紹介の方がおられた。「私にチャンスをください」…忘れもしない27歳の2月26日、大雪の日。官邸に行くにもとてもじゃないが普通の靴では行けない位の所だった。武村さんにお願いをして秘書にして頂いて、それから間もなく細川政権が崩壊をして、その後羽田内閣が出来てそれがまた崩壊をして自社さ政権というのが出来て、その時大蔵大臣に今度は武村が着任した。(その時に秘書さんだった)―そう。(細川さんが都知事選で落選されたがどう思ったか)―私は今自由民主党の国会議員として、ああいう出方もあるのかなと思いながら眺めていたというのが実態。やはり東京という所は、今総務省という立場で地方自治を見ていても色々な問題がある。決して一つの問題だけではなくて色々な問題があるわけだから、その事一つ一つに充分な責任と、そして実行していく為にはどうしたらいいかという点ではどうかなと思った。(ご自分で選挙に出られてから何回出馬して何回落選しているか)―武村さんと一緒に新党さきがけで参議院の比例区に名簿で一番最後の打ち止め候補として出てくださいと言われてまず一回。出てみなさいと言われて、さきがけで。これも自分の名前を書くのではなくて政党名でどうかと言われてそれも落選。(この二つは消したい(笑))―いえ決して消したいと思っているわけではなくその2回落選をして、周りの人も心配をして、そろそろ学んだ事も充分だからやはり与党の自由民主党という政党で色々もう一回勉強し直したらどうかというお勧めもあり、実は大学の先輩でもある小渕先生、当時は愛知県名古屋が万博と空港の件で大変なお世話になっていた。この先生の処に伺ってはどうかという事で実は小渕先生のご厚意で草鞋をもう一度脱がせて頂いて、その一年後に生まれて初めて本当に自分の名前を書く県会議員の選挙になって愛知県の県会議員になった。(武村さんから小渕さんの処に行った経緯は?)―自社さ政権で一緒に与党を担っていたから、自由民主党という政党も決して遠い存在でもなかったし、大学時代もひっくるめて自民党の先生方の処で一番最初の衆議院の選挙で私がアルバイトをしたのは河野洋平さんの処。これは何故かというと早稲田大学高等学院出身の先生でもあったので伺ったりしていた。私の身の回りからすると新党さきがけとか新自由クラブとかいう処にもいたが自由民主党というのは決して遠い存在ではなかったので。(小渕さんの秘書さんは1年間?)―基本的には名刺こそ渡して頂いたが自分がどこから出るか何に出るかという事をよく考えなさい、と言われて殆ど愛知県に居た。そしたら今の知多半島の国会議員であった久野統一郎さんという先生が、最終的には私の地元から県会議員に出ないか、という誘いを頂いて非常に迷ったが「縁もゆかり無い所から出る事になったので宜しくお願いします」と言って出たのがこの県会議員の最初の選挙。(小渕先生はこの時はどういうスタンスか)―小渕先生は私が出た時、総理大臣。私が小渕先生の処に伺った時は殆どお役についておられなかったがすぐに外務大臣になられてその後総理になられた。(運が良い)―お陰様で。(総理になってからでは秘書になれなかった?)―そう。(二期県会議員をやって40歳の時愛知万博開催と共に初当選、衆議院議員に)―そう。40歳の時に開会式は県会議員で臨んだ。閉会式に国会議員で臨む事ができた。(お祭り男(笑))―電通ですから(笑)。(83会の一人という事で小泉さんの郵政解散選挙で見事国政に初当選されたという事)―はい。(当時はチルドレンと言われていたがどうか)―チルドレンとかチャイルドとか何で言われるのかなと考えてみると二回目の当選が大変なんだという事を沢山の人達から注意喚起をされていたのだと。しかし初めて当選すると嬉しさも一杯あるし、こんなに色々な事もできるかという事も知るし東京で仕事を自己満足でしているだけで本当は私を選んでくれた人達に対して何を返す事が出来たのだろうかという事、そういう事がなおざりになったりしていると、「やっぱりチルドレンでした」という世界で去る事になってしまったと。そこは深い反省だと思う。(働き盛りの45歳で落選)―それは自分の努力の至らなさなのでこんな事をやっていれば酷な事は必ず起こる。それがこんな時期に訪れたという事態は自分にとっても驚きで、それまで支えて来てくれた私に対する無念というか悔しいというか申し訳ない事をしてしまったという気持ちもあったので、これは絶対に我々も悪かったけれども世の中ももっと悪くなるという事を確認してとにかくここで止めてはいけないという事で(そう思わないとやっていけない)―この仕事はやっていけない。翌日から立った。(何と落選中に結婚されている(笑))―申し訳ありません(笑)。<会場拍手>(先生の会報誌に奥さんのコーナーがあるがすごく綺麗な方)―いえいえ(笑)。(初めての結婚?)―はい。(電通マンで何やってたのか(笑))―仕事をしていたので(笑)。(出会いは?)―落選して家へ帰って来たら一期目の当選でとにかくめちゃめちゃに仕事をしていたが色々な人が「結婚しろ結婚しろ」と間を取り持って写真を沢山持って来てくれた、お見合いの写真を。家に帰って来て最初にパーッと部屋の中を見回してみて写真が散乱していてこれは返さなくてはいけないぞと。「申し訳ありませんがもう一回会って頂けませんでしょうか」と言いながら一つずつ丁寧に返していった。そしたら今の家内の処だけが「まあではもう一回会ってもいいよ」と、こういう事になり、本当に出来過ぎた話でもったいない話だが「いいですよ」という話になって「それでは二人でご飯食べましょう」と言って食べるのだが…聴かれてもいないのに話して申し訳ないが(笑)…最初の日に待ち合わせたホテルにふと見たらお母さんと思しき人が一人…眼鏡を取ると見えない…とあと二人位女性がいる。なんでこんなに沢山、おばさんとか皆来ちゃったのかなと思ってビックリしながら見ていたらお母さんのお友達二人と本人、全部で四人いて「大変な事になったぞ」と、二人きりで食べるお金しか握りしめてないのでどうしようと思いながらやっていたら向こう側がお座りになられて、ここは最初に言っておかないとダメだなと思い「僕は落選したので無一文です」というのが一つと…(借金は無かった?)―借金はお陰様で無かった。それからもう一つは「政治は諦めません」と。「だから職業は変えません。これ一本で行きたいんです」という事を言ったら向こうのお母さんが「困ったなあ」みたいな、「こんな事言われてしまって」という感じであったと思うが、最終的には広い広い家内の心によって支えて貰って…(奥様は何をしていらっしゃったのか)―当時は会社勤めをしていた。(お年はだいぶ離れている?)―12歳違う。(すごく綺麗本当に)―有難うございます。(最初の政治活動と違って倍になったのでは?)―はい、本当に有難い限りでただただ頭が下がる。(一人でやっていたご自分が嘘みたい?)―そう、本当にそう思う。段々地元では「もうお前来なくていい」と。一抹の不安と寂しさを感じながら、こんなでいいのかと思いながら(笑)。(バッヂ取ってまた復活して永田町は変わったか?)―やはり政権が変わったという事が一番大きな事だが、依然として日本の民主主義というのは私達を選んでくださる主権者たる有権者の皆さま方が基本にあって、その方の為に私達は国をどうするかという事を考えてやっているわけで、そういう点では変わらないと思う。ただ自由民主党というのは長い間政権を担う事によって驕り高ぶって政権の座から降りたわけで、その事をようやく政権の座についた上に、衆議院と参議院の逆転現象もお陰をもってこうして安定する事が出来たが、これが為にアッと言う間に元の木阿弥に戻る様な政治になってはいけないと。でも人間とは弱いものだから、ややもするとそういう方向に流れがちなので、そこを注意しなければいけないという事は胆に命じている。(落選中名古屋の結婚式はどうだったか)―約500人。(お相手も名古屋の方か)―相手は勿論名古屋のご家族のかた。どちらかというと「そんな派手な事はしない方が」と言う事でもあったというか、政治の世界には殆ど関わりの無いご家族だったので一つ一つがビックリされる事ばかりでかえって申し訳ないなと思っている。

●最近の政治トピックス

最近の政治トピックスと言われると何をお話ししていいかと思ったりするが、この2月は出張続きで最初の土日は長野県と山口県に行って、その次の週は和歌山県、これは日本で唯一の飛び地村という…飛び地村はどういう事かというと、奈良県にあるが、和歌山県北山村という村に行った。是非夏になったら、これを観ている方々、この北山村という所を訪れて頂ければいいなと思っているのだが、ここは北山杉という杉が取れて、この杉を新宮市から全国に運んでいたので、明治維新の後に「どこの県に所属をしたいか」というのを明治政府とやるのだが、その時北山村の人達は「新宮に木材を送っているので自分達は奈良県ではなくて和歌山に帰属したい」と言われた。そしたらこれで良いという事になった。もう今2月なので3月、4月になると花粉症が出て来る、スギ花粉症…花粉症に効くかも知れないジャバラという柑橘系のみかんがあるが、これが世界で唯一ここでしか取れなくて世界一の生産を誇っている、あたり前だが。このジャバラを使ったジュース、焼酎、現地に行くとジャバラバーガーといって、鶏肉をジャバラの香辛料に漬けて揚げてハンバーガーみたいにして食べる食べ物がある。これはすごく美味しかった。北山村の食生活改善委員会という処の方々が作ってくださって我々も食べたがすごく美味しいのと、夏は今申し上げた通り筏で川を下ってその新宮に材木を出す、よく外国でフローティングボートでワーッと激しく川下りをするのがあるが、ここは筏で川下りをするのが物凄く面白い。言いたかったのは、総務省の…穏やかな人達の村の生活なんだが、やはり過疎地にあって、しかもここは人口470人で高齢化率が48%、つまり2人に1人が65歳の、まさに日本がこれから進もうとしている世界。でもここの人達は、この間トークをしたが27歳の女性から86歳までの方と一緒にやったが、皆ここを大好きだと思っているが、この村長さんが、ここで心臓がちょっと痛いと言って倒れられたり脳梗塞とか脳卒中とかになったら、どうしても運んで行けば1時間かかるから、命という事について言えば残念だけれどお亡くなりになる確率が大きい。でもここが大事。ここの道路をうんと便利にして10分や20分で病院にもし行ける様にする道路を繋いだとする…東京の人から見るとどう思われているかと言うと「無駄だ」と言われると。このバランスが地方自治という事を考えた時に難しい。でも山から下りて来いという事を誰が言えるのか、故郷を捨てるのを誰が言えるのか、と。というところのバランスを税金というものを使って私達は日本全体の事を考えていくわけだから、まあやはり非常に難しい事を自治という言葉の中でやらせて頂いているという事を改めて総務省という立場で痛感してきた出来事だった。それが私にとって一番の直接的なトピックス。国家としては今例えばNHKの問題とか国家戦略特区、これも今私が担当している日本全国より先進的な事例をもって様々な規制を突破していって新しい薬とか新しいものづくりをどの様に整えていくかというような事もやっている。一方もう一つトピックスで申すと、ここ数日大きな雪が降った。実は私の知多半島は畜産業が大変盛ん。知多半島というのはすごく暑い。搾乳をする牛などはやはり暑さに弱かったりするので少し規模を大きくしてやっている畜産業の人達は、静岡の裾野市みたいな所でもう一つ牧場を持ってやっているが、今回の雪であんなに大きな雪が降るとは思いもよらなかったので裾野にある牧場の屋根が落ちて沢山の手が傷ついたり亡くなったり、しかも雪が深くてすぐには入れないので今裾野で畜産をやっている人達の手当てを…これどんな風にできるか…死んだままおいておくのも地域に問題だし大きな損失にもなるし、この辺を農水省として雪害対策でどうなっているかと、今日たまたま副大臣と農水省でお会いしたら「昨日それの指示を出したから手当てをしていけるのではないか」という事で、相当裾野だけではなくて全国的に雪害が起きて、雪害で農業、畜産業色々被害が出ているので…(雪害なんて考えられない)―考えられない。去年覚えておられるか、北海道の北見であと10メートルの所にいた親子が寒さの中でホワイトアウトの中に入ってしまって抱きかかえて亡くなってしまった痛ましい事があった。やはりこの総務省という処は交付税、特別交付税とか色々あるが中でも除雪、雪害対策という事があって、今週の月曜日にその北見に行こうと思ったら丁度大変な雪深い事になってしまって飛行機が飛ばなくなったものだから一旦順延をして仕切り直しで行こうかなと思っている。(地方自治の親元が総務省なので全国放送しなくてはいけない)―はいそうなんです。本当に色々なところに一生懸命慎ましく穏やかに日々を暮している人達にその穏やかな事をどうやって守って差し上げるのかという事に私達役所は総力を挙げて頑張っている。(総務省と内閣府の政務官を兼任できるものなのか)―私の場合はたまたま内閣府と総務省と兼任させて頂いたが、政務官は他に二人いるが、その一人は復興庁兼任になっていて、もう一人は総務省だけという事になっている。内閣府の方は先ほど申し上げた国家戦略特区、それから地方分権等々、道州制等々色々とやっている。(自民党は規定の人数の党員を獲得しないと罰金で一人千円とか二千円とか取られる。選挙もしなくてはならないし、永田町の事もやらなくてはならないし、党員も獲得しなくてはいけないしという凄い時代に入った)―でもどんな時代でも政治家はあたり前だと。政党を背負っているわけだし、やはりこの政党が与党としてこの国の責任を負っている訳だからその与党の一人のメンバーとして自分の地域で党員の獲得を頑張りなさいというのは政党として当然の事で私達も努力するべきだと。それによって私達の今ある姿がはっきり分かってくるので色々ご注文も頂かなければいけないのでそういう事は地元の関係の皆と一緒に一生懸命これもぶつかって行こうと思っている。宿題として考えたら有難い事ではないが、宿題なんて事ではなくてごくあたり前の政党活動としてやっていく事としてとらまえれば甘い事は言ってられないぞという風に思う。(実際は大変。陳情を受けるだけではなく議員さん側からもその人からお金が出る事を要求するわけなので)―お芝居を観たってお金は頂くし木下サーカスだってシルクドソレイユだって皆そう。私達も「是非私達の活動をお助けください。そして私達も努力していきます」という事。(自民党といえども活動家だから活動費は欲しい)―それはどうぞ宜しくお願いします、と。((会場に)どこかに入っている人はいますか?)―(会場:自民党)―どうも有難うございます。一人自民党の方がおられた。大変嬉しく思う。1年間で4千円。(控除対象とかになるか?)―それは出して頂く方法にもよる。なんであのオバマさんが有名なのかと言ったら、サイトの中で献金を募って、沢山の人がお金の量は別として、物凄く沢山の人が彼らの活動を支えた、何セントというところから何ドルまで含めて。沢山の活動費を差し上げた人達には米国の民主党さんは色々な形で報いている。(都知事選に出たアイフォンをいつも持っている家入さんも600万位集めて大したもの)―素晴らしい。それもコミュニケーション。やはり何もかもコミュニケーション。コミュニケーションすればする程責任が広がっていくからそれをしっかり自分で受け止めないとこの仕事はやれないなと思う。

●今だから言えるあの日のあの出来事

色々な事を経験させて頂いたのでどの事を申し上げていいのか困ったなと思っているが(笑)どんな処を特に…(例えば志帥会や政局がらみの事や派閥の事でもよいが)―別段派閥の問題等無いが、よく派閥の弊害と言うが、自分で二階先生について周りたいという風に決めた。それは小渕恵三先生に自由民主党としては最初に門を叩いたわけだが残念な事に小渕先生が亡くなられた後に衆議院選挙に入った。小渕先生のグループである額賀福志郎先生にも大変なお世話になった。他にも大勢の先生方にお世話になったが私は県会議員時代にいよいよ自分がついて周りたいと思う先生を考えておかなくてはいけないという時に色々な方々をご一緒させて頂く中で、私としては二階俊博先生が一番…こういう言い方をしたら失礼かも知れないが、面白い、ついて行って色々な事を学び取りたいと思う先生でいらしたので、迷う事無く自分から「僕を拾って頂きたい、お願いします」と。(バッヂをつけてから言った?)―公認候補になる前後位からずっと。(二階先生による冊子の表紙「原点」の字が上手い)―私がこれを作ろうと思ったのも先生がずっと自分の活動録を作っておられて、そうだこれは作っておきたいと思って、作るにあたって「原点」というこの字は先生に書いて頂いたが、「原点」と書いて欲しいというのは私がお願いをしてお書き頂いた。(二階派はどうか)―よく色々な人達が派閥の事を色々言うが、非常にまとまった集団として、何でもかんでも意見が一致するとか、そうではなくてある政策を展開していく時に大勢の人が必要、議会というのは。その大勢の人達に対してコミュニケーションの核となって皆が頑張る。そして説得をしていく。そういう事をしていく集団として二階派はすごくいいグループだと。こんなに団結力があって色々な意味で活躍をさせて頂いているグループは無いんだぞと思いながら誇りを持って活動を続けて行こうと思っている。(派閥は悪く言われるが良いと思う)―やはり学ぶ場というのは必要。どんな場面でも政治の世界でもそうだが過去に起こった出来事のケースをどう考えるかと、それを元にしてどうすれば解決出来るだろうかという様な事というのは先輩の皆さんから色々な知恵を貰いながら私達が行動して物事の解決に向けて行くという事をしていくべきだと思うので、決して私達は悪さをしているわけではなく悪さをする集団ではなく皆で切磋琢磨して私達の日本の為に役に立とうと思っている集団。(派閥は教育の場としても必要)―この仕事は変な言い方をすれば自分でしかコントロールしえない…(小さい企業の社長さんみたいで誰も言ってくれない)―そう、そういう意味では習わぬ小僧ではないが見聞きをして「そうかそうか」と知っていく事が大事。(やりたい事があればまずは派閥の中で戦わすべき。勇気の一歩。かえって厳しいと思うが)―説得というのが私達の仕事の非常に大きな部分。例えば自分の抱えている法案について…自分の政党だけではない…二階先生に私は初当選した時に観光立国基本法という法律をいっぺん制定してみようと、やってみようと30数年ぶりの改定をしてやろうと。それで観光立国というものに進んで行くが、この法律はお任せ頂いた時に観光は平和産業だからただ与党で作ればいいというのではなくて共産党に到るまで全党全く全会一致でこの法律を作り上げたいと思い、本当に無手勝流だったが先輩の先生方が見守ってくださる事によって民主党、公明党、社会党、共産党各党の皆さんにご指導を頂きに行ってその法案を作り上げていく。勿論そこまでのずーっと積み上げて来た事の上に私達は仕事をさせて頂いているので、決してその瞬間だけではなくて、長い間の最後の処を私達にやってみろと言って頂いて本当に自分でon the job trainingとして良かったなという事もあったし本当に学ぶ事が多い。(伊藤代議士はコミュニケーションを大事にされるという事だが二階さんはコミュニケーションされるか、あまり喋らないイメージだが)―喋らないというのは、余分な事は話さない。余分な事を言わない程度だと思ってください。政治は自分の年代とポジションによって存在の仕方が変化していく。今私達は喋らなければ「ここに居る!」と言わなければ誰も見向きもしないまま終わる時代、そういうタイミングにいる。でもそこに居るのはよく分かっている、そこにおられる方の力もよく分かっているというところになると今度は注ぎ込まれる情報の中から正しい方向を決めていくというポジションになってくる。やはり二階俊博先生は私達のリーダーなので、リーダーはできる限りリスクを取りつつも間違わないという事をしてもらわなくてはならない。私達はそこについていく側としてまだまだ「居ます!」と言わないとならないタイミング。(悪い例が小沢一郎さんではないかと思う。何を考えているか)―政治家というのはやはり伝えないといけないから、どう伝わるかというのはある。そういう点では誤解の無い様に伝えておきたいが、二階さんというのは物凄く伝える事をやっている。例えば地元の新聞には1ヵ月には1回位は出ているし、自分で文章は書くし自分の事を伝えなくてはならない時は本を出したり新聞を出したりいまだ様々にやっている。私はこれ(冊子)を地元に7000近く出しているがその人達が私の日常を知って貰ってそしてまた伝えて頂ければ有難いなと思ってやっている。(ボリューム9だがどんな間隔か)―半期に1回。(まとめておくと後で良い)―後では無理。私は日記など書いた事が無い人間だったが、今は毎日毎日起こった出来事…今日は「みわちゃんねる」に出させてもらってハラハラドキドキ1時間が終わりそうだとかそういう事を一所懸命書いてやっている。
(SNS:ネクタイが素敵)

●質問コーナー

Q: 政務官という大切な仕事をされているが、河野談話、村山談話についてはどんな考えか。
A:私も実は日韓議連の事務局次長をさせてもらって頂いたりして、この間の韓日日韓議連総会があって、二度目の当選で初めて出させて頂いた。物凄くシンプルに言うならば、日本国民の幸せの為に考えるのなら喧嘩の状態であらずに仲の良い状態というか…仲の良いにも色々あると思う、国家と国家なので。しかし通常に会話ができて、普通に喧嘩ができてまた仲直りをする、切磋琢磨もする、こういう事が普通に出来る様にするにはどうしたら良いのかという事を私達は皆で考えて選択をしていかなければならないと思う。しかし国家なので自分達の主張をどうしても折ってはならないところまで折ってでもやらなければならないかどうかという点は、私はそうではないと。私達には私達の主張があると。その事はその事として理解をして頂けるようにどんなに年月がかかっても理解をして頂けるよう誠意を尽くすという事も大事な事だと思う。色々な談話も発表されたし色々な行為も両国の間にもなされた。また多くの民間人の方々がそれぞれ交流をして頂いている。これは総じてどういう事を目的としているかという事を隣国同士、時には喧嘩もするかも知れないが、隣国同士の在り方はどうあって欲しいのかという事を私達が痛切に感じながら両国の政治をリードしていかなくてはいけないのではないか、これが大事なところではないかと思っている。

●その他

(冊子「UBUDAS」を見たら年月が経っている…)―参議院に転出した人が3人いる。この中で現役で存在しているのは40数名。政務官で全部で27名政府の中にいて、その中で同期で政務官をやっているのが15人位。(83会でたまに会ったりするか)―この間臨時国会の時に政務官で同期で声を掛け合ったらアッと言う間に15人中13名集まってすごく楽しく励まし合いながら「ガンバローガンバロー」と言ってやらせて貰った。