宮内 秀樹
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第96回
2013年11月06日 放送

自民党 宮内 秀樹 衆議院議員

(以下、動画より文字おこし)

自民党 福岡4区 1期目

(濃い顔されている)―ちょっと濃い。沖縄ですかと言われる。生まれは四国の松山。(前回ご紹介頂いた星野つよしさん、その前の橋本岳さんは本会議場で隣あっていて、次ご紹介するかたは1つおいて隣の席)この辺が自民党の本会議場のヤジのうるさいところ。星野が本当にうるさい。橋本岳さんはヤジのチャンピオンというか間が良い。平成のヤジ将軍という感じ。高い声で頓智が効いている。原稿も無いし、いつどう言うかタイミングはその人の感性。今自民党勢いある、ヤジには(笑)。自民党は空気感でやる政党で「お前調子に乗ってるんじゃないか?」という空気感を感じて「あ、ちゃんとしなくては」と。言われる時はかなり深刻な時だと思う(笑)。山本太郎さんには言葉が出ない感じ。67万の人が(山本さんに)投票している訳で、それをどう見るかという事は有権者のかたが判断するという事だと思う。投票というのは、政策もあり人間性もあり所属政党もあり、何か自分の仕事の関係もあり、色々なものが総合的にフワッと来て投票行動を決めると思う。あまり都合のいい事ばかり言っても上手くいかなかった民主党は、というところは、やはり政党人として期待できるかどうか、この人の日頃の活動とか目に気合いが入っているかとか色々な事で決めていくという事で、そういう事が成熟していく社会でやっていかなければいけない。「民主主義というのはやはり時間とコストがかかる」というのが実感なのではないか。やはりテレビを中心しとしたメディアの影響はここ数年特に増しているから、大きい選挙になればなる程どうやってメディアに捉えて貰えるか、どうやって良いパフォーマンスを見せようかという事が優先されてしまって、カメラのいる所にしゃしゃり出て行って立つのがあたり前みたいになって、それが上手い人がいい政治家みたいな事を思われる、これは違う様な気がする。大きな岩盤を突き崩すには、メディアも応援してもらう強烈な刺激を、小泉純一郎さんみたいな形で。(小泉元総理の発言は目の上のたん瘤では?)―まあOBの政治家のかた、一生政治家というのか、が自分の発言をするというのはそれはあたり前だと思うが、それを受けて政党としてどうか、個人の政治家としてどうかというのは別の問題で、夫々が考えていくものではないか。(森元総理が火消に回っているか?)―そんな事はないと思う(笑)。「あの人は場もちの良い人。宴会をやらせたら天才的、森喜朗さんは。」という風に言われて来た。

●幸せ度数年表

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第96回宮内秀樹

1962年、愛媛松山生まれ。中学校からずっと野球部で中学高校と野球選手だった。愛媛県は野球どころでまさに甲子園を目指して松山商業とか、最近強い済美高校、新田高校とか甲子園で優勝経験がるところがあり「三度の飯よりも」みたいなところがある所で、とにかく野球をやっていた。勿論甲子園に出られなかった訳だが、慶応大学で野球をやりたいと思って慶応大学のセレクションを受けた。5人位は特別な下駄を履いて入ったが「宮内君は勉強頑張ってください」と言われて入れなくて1980年青山学院に入った。四国松山だったので都会に憧れた。とにかく東京に出て行かなくてはと、東京に出て来た、原宿の竹の子族が大流行の頃。日本が調子の良い頃。田舎モンなので(竹の子族を)後ろの方から見るだけ「すげーっ、ありかよー」と。(松山とは)全然違った。女性がすごく綺麗だった感じがした。(青学は)懐かしい。皆スタジアムジャンパーにデッキシューズなど履いて、サークルのエンブレムを(スタジャンに)入れてソフトパーマをかけていた。あの頃安いのが出て来て、3千円位の高田馬場駅前のパーマ屋で。高田馬場に住んでいたが、その前に世田谷区用賀に住んでいた。1万8千円の汚い下宿に住んでいたが、隣に久保田利伸が住んでいた。彼は駒沢大学のサークルでギターを弾ていた。アフロヘアで汚くて、「友達と新宿で飲んで来た」と言って帰って来て「宮内、宮内」「どうした?」「新宿でぼられちゃった、2千円貸してくれ」と。それで2千円貸した。そんな事があったりして当時の学生時代はそういう下宿の横の繋がりで一緒に飲んだりした。(久保田利伸さんと同い年?)―そう。(宮内さんが国会議員だと知っているか?)―知らないと思う。会ったら多分肩を抱いちゃうと思う。(スーツの宣伝ですごくカッコイイ)―かっこいい。とにかく彼は汚かった(笑)。ビーサンか下駄を履いていた。(黒人音楽がその頃はまだ)―そんなでもなかった。とにかく東京に出て来て楽しかった。毎日毎日楽しくて、その頃は学生が大事にされていた。(ハンサムで目立ったのでは?)―遠くから見た方が良い。(学部は)―経営学部は5年制学部…ではなく自分がたまたま5年行っただけ。(23歳で卒業して秘書になった?)―実は就職で悩んだ。自分は商社マンになりたかったが、商社を受けて落ちてしまったので1年留年してアメリカに行った。1年間自分なりに悩んだ。初めて海外に行ったが、商社マンに成りたいのに海外に行った事が無かったが、それはおかしいだろうと思ってバイトをしてアメリカ1周をして来た。ただ(バックパッカーみたいに)周った。それでまた就職したいと同じ会社を受けに行った。某総合商社へ。それで最終面接まで行った。次の年に行ったら「また来たのか、頑張れ」と言われたが「日本の企業は1回否定したものを2回目に肯定しないのだ」と。社会はこういう事なのかと、そういう思いは皆さんもあると思うが、もう一回修行し直さなくてはいけない、と。ちょっと政治に興味があったし一からそういう角度で頑張ってみようと思ったのが政治家の秘書になったきっかけ。(政治家の家系か?)―関係ない。地元の親戚のおじが「地元選出の国会議員の事務所に行ってきな、昼飯くらい食わしてくれるから」と。(おじは)後援会の幹部だったみたいだが、それでちょこっと顔を出したりしていた。そうしたらていよく色々使われて「ハガキの宛名書きしろ」等。(塩崎潤さん=塩崎恭久さんのお父様の処)に入り、お金も無く給料も安かったので…12万5千円(笑)、5年間毎日働いていたが「住み込め」と言われ住み込んだ。当時はあまり住み込み書生というのは無かったが、住み込み秘書を5年やって、その時塩崎恭久さんは日銀に勤めていらした。朝一番に出て夜一緒に帰って来て、当時は新聞記者を家に入れていたので水割りを作る係をやった。(色々な話を)聞いたり聞かれたりしたが、あまり意味が分からなかったかも知れない、今考えると20代そこそこの頃は。お父さんが引退されて、息子さんが(日銀を辞めて地盤を引き継いだ)。10年位秘書生活をやったがかなり疲れた。当時は途中まで中選挙区だったが、ザ・サービス合戦でとにかく「飲ませ食わせ」を。後援会、町会なども1次回2次回と。理想とかけ離れた現場に疲れ果てた。いくら飲ませても同じで、やる人はやる、やらない人はやらない。(自民党は良い意味での癒着が)―コミュニケーションがとれていた(笑)。(塩崎潤さん恭久さんの秘書期間は)―7年と3年くらい。過去の事は色々考えない様にしている(笑)。お父さんの世代は大正生まれの人で時代背景が違う。物事の価値観が急激に日本は変わったのだろう。((32歳)秘書を辞めたが1年で復活)―癒された気持ちと身体も3ヵ月位あれば「あの臭い世界もいいな」と思っている時にある転機があって、あるかたから「福岡の方で選挙に挑戦する人がいるからそこを手伝ってみないか」という話があって、天の神様が導いてくれたというので復活があった。それで福岡4区の代議士だったが東京の(永田町)事務所勤務だった。(地元には)その頃は責任者だったので行ったり来たりしていた。(その渡辺具能議員が2009年に落選)―政権交代でかなり劇的な事で、あの暑い時に…今まで秘書をしていても落ちた事が無かったが、初めて落ちた時の選挙事務所の状況とか、相当深刻な雰囲気、何とも言えない、皆が言葉を出さなくなる(落選が決まる夜中)。相当支持率は厳しかった。実はあの時麻生政権が、政権が出来てすぐ解散していればもしかしたら政権交代は起きなかったかも知れない。リーマンショックがあったものだから、麻生先生の常識の線からすれば政局ではなくて今は選挙するべきではないと判断をしたのだと思うが、あれからまた数か月の間にもっともっとフラストレーションが溜まったし、経済の深刻度合いが酷かったから。ここはもう民主主義で選ばれた国会が選ぶ総理なので、そこの判断が国の方向性を決めるので、そこはもう総理が決めるという事で時代を作って行くのだと思う。(周りは)色々言ったと思うが自分が決める事。(秘書経験は?)―25年位。(リーフレットには朝の部会にはずっと出ていたと)―割り合い議論の場で人の議論を聴くのが好きだったので、毎朝8時から部会をやっているが極力出ていた。今も激しいが昔はもっと激しくて、内部での議論が激しくて先生方は疲れているし胸ぐら掴んだ人もいた。(誰が一番激しかったか?)―それはもう浜幸さん。内側でも凄かった。その激しかった浜幸さんの胸ぐらを掴んだ人がいた。笹川堯先生。これは凄かった。さすが笹川堯先生。かなり激しい人間と人間の…政策論争で始まって「てめーだいたいお前はなー」というのが何処かにあったのか。あれは知恵みたいなところがあって、その後はお互い収まっていったと思うし、自民党ってちゃんと中に入る人がいる。当時どうやって収拾したか分からないが、親分たちが「まあまあ」と言って「一杯やろう」みたいな事で収まる社会、どちらかと言うと自民党は。そういうところを見て育ったので、そういう物事の決め方なのだなと、それはそれで日本の社会の知恵みたいな事なのかなと思い、そういう感性は醸成されて来たかなと思う。ガチンコ勝負しても「俺はこう」「俺はこう」と両方退かなかったら物事が決まらない。そうしたら知恵を出していくしかないし、基本的な物事の考え方が全く違うという事であれば多数決しかないと思うが、方向として大きく言えば同じ方向であれば何処かでオチを付けて結果を出して、こっちの人とあっちの人が「何だ中途半端な結論を出して」と言うが、それは決めた人が責任を持って「これはこういう事で決めたんだから次こういう事にしようじゃないか」と言ってやっていくものだと思う。古き良き自民党というより、日本社会の島国の知恵みたいなものがあったと思う。地域社会もそう。自民党が凄いところは、結論を出そうとして過激な事もあるが、終わったら「無し」というのが関係者間もあるし、周りの人間もそういう風にしていこうと会議は1時間で終わる。この伝統は凄い。基本は1時間で終わる、朝の部会も昼の会議も。皆1時間毎に日程を入れているので1時間の中で集約させるのだという事で、そこで結論が出なかったらもう1時間の会議をやろうと。(止めに入った調整役に星野つよしさんのお父さんの様なかたがいたのでは?)―ああいう人も裏で調整に汗をかいたと思うが先生達の世界はやはり先生達の世界でやる、基本は。(ついた先生の地盤の福岡の選挙区で出るという事だが、顔が濃くて良かったのでは?)―(笑)福岡というのは割り合い他所の人を受け入れる。閉鎖的ではなく「僕はこういう事をしたい」とストレートに人の懐に入って行くと歓迎してくれる。物凄く良い所。そういう意味でははっきり物を言う単純なところがあって、あまり引っ張らないところがあるので、そういう意味ではあまり違和感がない。言葉がまだあまり喋りきれない事がありますばい(笑)。(塩崎恭久さんとは)―さっきも会議で一緒だった。昔「恭久さん」と呼んでいたが今は「塩崎先生」と。結構頼っていて可愛がって貰っている。福岡で自分のパーティーとかに来てくださって話をして頂いたりとか、当選したら塩崎先生の奥さんからネクタイを届けて頂いたりした。塩崎さんは小選挙区で勝った(2009年)。朝から晩まで選挙をしている、地元では。朝4時から魚市場へ行き、夜は夜で宗教団体の集会に出る位。もう徹底している、走り続けるのでしょう。

●最近の政治トピックス

今日日本版NSCが衆議院を通った。国会の状況は今はかなり与党が安定多数を取ったので、そういう意味では民主党が大きく反対しない、みたいな法案は割り合いスムーズに行くと思う。(民主党は)去年の12月まで政権を持っていたからそれまで温めていた法案があり、それは何とか成立させようという立場にあった時に関係だった人がまだ民主党でいらっしゃる。政権変わったからと言って急に反対しづらい事もあるし、そうは言っても野党だから全部賛成という訳にいかないし、修正したり付帯決議を付けたりして通していく事が日本の為だと思う。思うに何かの時に各省庁がバラバラにするのではなく、官邸が中心になって各省庁、大臣がピッと来て会議を始めて「これで決めるんだ、これが政府の意思だ」という事にしておく準備がやはり必要だし先進国どこでもそういう体制は当然だと思う。(各省庁の大臣が)割り合い頻繁に情報交換をしようという事にはなっている。それをどういう風に運営していくかというのは安倍総理が新しくできた物をどうやって使っていってどうやって有効に活用するかという事を自分は考えていて、日本版の形を作っていくと思う。(党内ではNSCについての議論は激しいものは無かったか?)―これは自民党のセンスからすれば「だいたいそうだよな」というセンスの事、感覚的な。そのセンスの事を、割り合い重たい法案だからあまりやりたくないという心理が働いていたのかも知れない。これは安倍さん、第一次内閣の時から言い出して安倍さんが肝入りでやっているという事だと思う。政権が安定している時に(決める)。(安倍総理がトルコに原発を売ってきたが)―日本の原子力技術は凄いらしい。そんなに詳しい訳ではないが、原子力技術は日本とフランスが最先端。インドは大きなエリアで電量事情が凄く悪いみたいで夫々の都市部のエリアにそこそこのスケールの原子力発電所を作りたいようなので、そこの世界は頑張っちゃうべきだと思う。日本でどうするかという問題は日本の社会的問題として。(安倍総理は)気合いが入っている。日本は世界に対して政府が気合いを入れて中心となって色々な物をPRする、そういう事に欠けているのではないかと。他の国はもっと戦略的。戦略的国家にならなくてはいけないと言われて久しい訳だが、その事を強く意識していた安倍さんが自分で実践しとうという事になっているのだと思う。こういう形の事をちゃんと我々は国会の中で支えていく体制をしっかりとっていって、何が大切かというのは内向きにコップの中の争いをしているのではなく、外に対して、将来に対してという事。安倍さんの次もまた勢いのある人が出て来る、自民党の中から。…まだ言えないが。(小泉進次郎さんは?)―まだ早いでしょう。切磋琢磨するでしょう。こういうやりとりを生でしていると割り合い本音で話ができて良いと思うが、テレビなどで国会の出来事を物凄く誇張して報道されているというのはバッヂをつけて特に思う。平均的なところの報道では無く、どこか一番報道し易いところ、受け易いところ。(国会内の吉野家の牛重?)―大した話ではないが(笑)。そういう意味ではそういう事を超えていかなくてはならないから新しいリーダーが出て来るでしょう。

●今だから言えるあの日のあの出来事

秘書をずっとやっていたので、昔の選挙と言ったら例えばどんな事だったかと言うと、それは買収が凄かった。(おにぎりにお札?)―おにぎりはさすがに亀井静香さん位しかしてなかった(笑)。30年近く前の選挙前の後援会の会合で、料理を出してお酒を用意して、後援会の人が20~30人公民館に入って来ると座布団の下にまずこう手を突っ込んで、何しているのかと思うと座布団の下の封筒に5千円入っている。時効だから(言っている)が聞いた話(笑)。やった話ではなく聞いた話。そういう事だった。「こんなもんこんなもん」「いやいや経費ですから」「そうか」となる。1回は断る。お茶出して貰ってコーヒーが出たら帰らなくてはいけないのに帰らない客がいる―全然別の話だが空気を読む社会。ドンチャンやって後援会名簿とかポスターとかを持って帰っていく。それで「有難うございました。5千円、経費です」と。中にはその選挙終わってから警察がトントンと来る事があったりする。聞いた話(笑)。「○○さんいますか?」と警察は来て連れて行かれたりする。一泊ではなくだいたい18泊位。そんな事の上で今の民主主義がある(笑)。そういうサービス合戦が行き過ぎてこれが民主主義みたいなところからお金のかからない小選挙区制度に変わった。伝説ではなく事実、全国各地でやっている。聞いた話(笑)。地方は特に凄かった。あそこは5千円であっちは○千円みたいな話があったか無かったかみたいな。選挙事務所は昔食事を出していた、今は食事を出してはいけないが。田舎の方に行くと、お刺身を出したりとか。中選挙区時代、「Aさんの処に行けば芋しか出していなかった」、「Bさんの処に行けばお刺身が出ていた」と言う訳。それを聞いたAさんは「よし次は肉を出そう」と言って肉を出していた。そういう社会だった。それを見ていて自分は疲れた、本当に。スーツのポケットにいくら位お金が入るか分かりますか?1万円札で。…ガーっと入れたら2本位入る。聞いた話(笑)。ギューっと1万円札を絞って固めると7ミリ、100万→7ミリなので1千万は7センチ、二つ位を分けて入れられる。そういう選挙の話と収入は別の話、仕事の話なので。あくまでも聞いた話なのでご理解を(笑)。

●質問コーナー

Q(SNS):エリートでない人生の面白さ。
A:エリートではない。叩き上げ。「平成の叩き上げ代議士」と自ら呼んでいる(笑)。
Q:ずっと秘書をやっていて何処で政治家になろうと気持ちが切り換わったか?
A:何となく大雑把な将来の夢みたいなものは若い時から持っていた。20代後半位の時
に1回県会議員に出たいなと思った事があったが、その後具体的に選挙をやってみようと思ったのが渡辺先生が落選の4年前、48歳位。本気で考えて政治自体も世の中も疲れていたというのもあるし、せっかく二十何年もやってきたから自分の人生だから思い残す事なく挑戦したいという事で、最初で最後の挑戦のつもりだった。だいたい30歳位なったらツブシが効かなくなる。秘書なんか30年やって他にツブシが効く訳ない。1回辞めた時にそれを知った。広い意味で政治の世界で生きていく覚悟で秘書復活の時に政治で飯食っていこうと思った。結婚は28歳位。結婚しないと塩崎先生の家から出られないかと思い(笑)、5年住み込んで「結婚するので(家を)出る」と。
Q:前の代議士の地盤を引き継ぐ時に公認を得るまで苦労されたと思うがどういう事があったか?
A: お仕えした福岡4区の渡辺具能先生が、公認の人選(自分)に対して応援してくれる立場を取ってくれなかったという事があった。政治は色々な事の要素があると思う。こんな事で、あんな事でと言う時間も無いが、そういう流れになってしまった。後援会の人たちは自分が「頑張る」と言ったら凄く応援してくださったが、渡辺先生はあまりそういう意思表明をしてくださらなかったので、少し選挙区の中ではどういう事なのかという事があったり、公募に5人の人が手を挙げられ、その5人の中での選択をして頂くのに結構地元を回ったりして自分の推薦状を頂くような事を皆にお願いしたりした時期が1年位あった。色々複雑な事はあったが、多分ご本人にまだ政治家を辞めるという100%の気持ちがまだなかったのかも知れない。自分が「やりたい」と言ったのが、渡辺先生にとって「俺はまだはっきりと引退をすると言ってないではないか」という事があったのかも知れない。自分にとってみれば「そうではないでしょう、前に引退をと仰ったではないですか」という立場だが「いやいや俺はそんな事はないよ」という、こういう世界は出てくるもの。渡辺先生にお世話になって今があるのは間違い無い事。今も殆ど会っていない。やってこられた事を自分自身としては引き継いでいきたい。地元で渡辺先生が手掛けて来た事、完成している事とそうではない事があったりするので、そういう事をやって行く中で将来的に「そんな事もあったかな」と周りの人も思ってくれる様な政治活動を一生懸命頑張ろうという風に思っている。結構インコース高め投げて来ましたね、汗かいちゃった(笑)。
Q(SNS): 悪事を秘書のせいにする政治家をどう思うか。
A:それはあり。ずっと秘書をやっていたから秘書はそれ前提で仕事をしている。本人が
有権者から票を頂いて政治家になり、その中で飯食わせて貰って勉強させて貰っているわけで、秘書は。どうしても傷をつけない方が良いという力はその事務所の中では働く。だからと言って自分がそうするという事ではない。秘書の立場が分かるのでそういう事をするつもりは全くないが、そういう事も「あり」という世界ではあると思う。

●その他

国会では国土交通政策。空港とか港湾とか相互交通とか、秘書時代に一番勉強させて貰ったところ。羽田空港、成田空港の首都圏空港の容量を増やして、勿論観光客もそうだがオリンピック・パラリンピックに向けて玄関口を大きく開く為にはどういう事をしたら良いか、どういうところに作るのが一番効果的だとかどういう風に使う人が使い易い様なインフラにしたら良いのかというのが専門というか、そちらの方で頑張って行きたいと思う。国交省は前向きな、作っていくという様な仕事をしている役所なので面白い役所。