新妻 秀規
新妻バスト3
第156回
2015年06月03日 放送

公明党 新妻 秀規 参議院議員

『会いに行ける国会議員 みわちゃんねる 突撃永田町!! USTREAM akasaka plus』 第156回のゲストは、公明党 新妻 秀規 参議院議員でした。 同党のラガーマン繋がりという事で、濱村 進 衆議院議員のご紹介で出演してくだ さいました。 かつて、ご実家はラーメン屋さん!(庶民的)麻生中学高校、同党の伊佐進一衆議員 と同じ東大(航空宇宙工学)を卒業し、大学院へ。川崎重工業に就職。アメリカ赴任 でボーイング社に駐在し「ボーイング787」の開発にたずさわる。 JAXAの宇宙飛行士試験を受け最終50人に残るも落選(落選の理由は、みわちゃん ねるでも) 空と宇宙にロマンを抱いている国会議員さんです。 公開生放送のスタジオですが、新妻議員に会うために京都からのお客様が いらしてくださいました。

(動画より文字おこし)

公明党 全国ブロック1期目(2015年6月3日収録時点)

[公明党7人目です。公明党の輪がずっと繋がっているんですよ]―それを、私が断ち切ってしまうという(笑)。[次どなたかは聞いていないんですが、公明党にNOを出されたのかな、と心配なんです。今年はずっと公明党だと思っていたので]―いえいえ、あまり続いちゃうのもどうかな~、と思いまして。[そうですか~?…この間、遠山議員が特別委員会で安全保障の問題について、かなり良い質問をされていましたね]―そうですね。遠山さんは歩く辞書みたいな感じですよね。[「みわちゃんねる」で対談させていただいただけなんですけれど、講演会みたいになっちゃうんですね。引きが強い人なんですよね。顔も濃いですけど(笑)]―間違いないです。日本人に見えない。支部会という支援者の方を対象にした会合で、「コスタリカ人とよく間違われるんですよ」と話して会場を沸かしてから「おかあさん、コスタリカ人を見たことあるんですか?」と言って(また)ドカーンと沸かせるという。[いつもそのネタを使っているんですね。そうですか、遠山議員もずっと公明党だっておっしゃって下さってたんですけど、残念ですね。番組の最後を楽しみにしたいと思います。新妻参議員はどちらの比例出身なんでしょうか?]―参議員は全国なので、全国1ブロックなんですよね。一昨年の選挙で初当選させていただきました。[じゃあ、秋野公造さんと一緒ですか?]―秋野公造とは3年ずれてると思います。[秋野先生はぶっちぎりですからね、一緒にならないほうがいいですよね]―間違いないです。戦いたくないです(笑)。[で、今「名古屋城」という(ハッピ)のを着ておりますけれども、どういう事なんですか?全国区にもかかわらず]―今住んでるところが名古屋なんですけれども、そもそも自分が候補者になった時住んでいたのが愛知県だったんですよ。それから程なくして名古屋市に移り住みまして、今ではすっかり名古屋人になってしまいました。[でも選挙では全国津々浦々行かれたわけですよね?]―そうですね、おっしゃるとおりです。ですが、活動の中心は愛知県を中心とした中部のエリアなんです。ということで、名古屋城。[ラガーマンっていう事で、縁のものがここに(ポスターを指しながら)。追々紹介しましょう] ●幸せ度数年表 第156回新妻秀規   [1970年埼玉県生まれということで、埼玉県のどちらですか?]―越谷市という水郷地帯です。埼玉県が芋の形をしているんですけれど、その右端の方なんですよ。昔は田んぼしかない所でした。今は、東京のベッドタウンになった所で、そこで生まれて育ちました。[それで、名古屋に行ってるんですね]―それはね、就職の時なんですわ。しばらくは関東圏で暮らしていました。[埼玉は何歳までいらっしゃったんですか?]―18歳までですね。[身体が弱かったんですか?]―そうなんですよ。[公明党の議員さんは、結構身体が弱いんですよね。秋野公造先生もアトピーとか。あとこの間の、伊佐さんかな? 4歳の時、難病だったんですよね。それが奇跡的に治っているという(笑)。で、大丈夫ですか?]―身体が弱くてですね、年中鼻炎が酷くて、(ティッシュを)1日1箱とか。とにかく身体が弱いんで、なんとかしようと水泳を始めたんです。で、だんだん身体が強くなっていくんですよね。そうこうしているうちに星と鉄道に目覚めまして、鉄道オタク時代がここから始まるわけなんです。[今でこそ「テツ」とか言うけど、当時はまだ市民権を得てなかった]―市民権ないですよ。[ちょっと変わってる子、みたいなね]―そうなんですよね。カメラをぶら下げて1日鉄道に乗ってる、みたいな、そんなような小学生時代。もう幸せで。[鉄道といっても汽車じゃないですよね?]―そうですね、普通の電車かディーゼルカーか。とにかく読む本と言ったら、時刻表。[へー!今でも(時刻表の)見方とか分かるんですか?]―分かりますよ。分からないですか?[全然!分からない]―まあ、今は無くても乗り換え案内とかで済みますからね。[見方が全く分からないです]―あれ(時刻表)は、面白さにハマると本当に1日中。そんなこんなで中学校に入りまして、(幸せ度数が)ドーンと下がるんですね。[いじめにあったんですか?]―実は東京の私立に入ったんです。[すみません、学校名を言ってください]―麻布中学校。裕福なとこの息子が来るとこなんです。「おまえみたいな弁当屋の息子は埼玉に帰れ」とか皆が言うんですよね。[お弁当屋なんですか? ラーメン屋って聞いたんですけど]―弁当屋をやって、そのあとラーメン屋になったんですよ。散々いじめられて「見返してやろう」と思うわけなんですね。[ちなみに実家のラーメン屋は、醤油ラーメン?]―豚骨ラーメンでした。当時なかなか流行ってましたよ。[豚骨ラーメン食べて育ったんですか。背も高いですよね]―そうですね。まあその当時は他の色んなものも食べてましたから(笑)。そんなこんなで、いじめは大体1年間で終わって、それから鉄道と軟式テニスをやっていました。それがとても楽しくて。大学に入ったら、五月病的な状態になったんですよ。「何か目標がなくなっちゃったな」みたいな。[すみません、大学名も言ってください]―あの、東大なんです。[すごいですね。じゃあ、麻布中・高、東大。学部は?]―工学部です。[それで2年後から…]―専門が始まるんですね。でも自分は工学部出身っていうのは、あんまり意識していなくって。東大って、ラグビー部っていう遥かに強いアイデンティティがあるんですね。それぐらいラグビーに没入した学生時代を送りまして。この番組にも出演した、舞立(昇治)さんっていますよね? 彼は私のちょっと下の後輩なんです。[自民党の]―そうです。私と同期当選の、鳥取選挙区で。舞立君が5年下の後輩なんです。[舞立さんって、あのメガネかけてる? いい顔してるんですよね~。舞立さんもハッピ着てましたね?]―そうなんですよ、ハッピ欲しいな~と思って。真似したんですよ。[あとラガーマンは・・・]―柿沢未途も、麻布高校のラグビー部だったんですよね。[あと、鬼木誠さんですね]―あー、なるほど、なるほど。[あと、森さんね]―あ、そりゃそうですね(笑)。[じゃ、ラグビーは大学に入られてからなんですね?]―そうなんですよ。テニスも面白かったんですけども、団体スポーツの一体感とかがすごく羨ましかったんですよね。[これ、濱村進先生からのご紹介ですけど…坂田先生の本を読ませていただいたんですけども、やっぱりラグビーって熱いものがありますね。全くルールは分かりませんが、読んでみて凄いな、と思いました]―ラグビーをやっていた、というだけですぐに友達になれちゃうんですよね。何でかなあ?[党派を超えた、一体感があるんですか?]―そうですね、他のスポーツもしんどいスポーツだとは思うんですけど、(ラグビーは)本当に死ぬかもしれないと思ってやる。100キロ近い樽みたいな奴が猛然と突進してくるのを、身体一つで止めなくちゃいけない、っていう。試合前なんか本当に…[緊張しますか?]―緊張なんてもんじゃないですよね。[血気盛んな若い時代で関節なんかも柔らかい時でも、やっぱりそういう緊張がある]―そうですね。最近OB戦とか出るんですけども、その度に「オレ、本当に怪我しないかな?」って常に心配を(笑)。[バッジを付けている以上、迷惑がかかる場合もありますからね]―そうなんですよ。ラグビーっていうのは凄いスポーツだな、と思いますね。[これ(坂田先生のご著書)を読むと、よく「選挙が終わったらノーサイドでいこうね」なんて言うけど、そんな言葉軽々しく使ったらいけないな、と思っちゃいますよね、こっちが重いから(笑)]―あー、なるほど。(大学は)スポーツ推薦ではないんでそれほど強くはなかったんですけれども、それなりに生徒数が多いので、絶対に勝たなくちゃいけない相手というのはいたんです。でもそこに大学3年の時に負けてしまうんですよ。それで(幸せ度数が)ドーンと下がっているんですね。[どこなんですか?]― 一橋大学。今は凄く強いんですよ。でもそこから這い上がって、最終学年で目標としていた慶応大学に勝つことが出来たんですね。日本一も取った名門なんですけど、そこに勝ったというのは奇跡だと言われてまして、それが自分の中ではかなり自信になった。とにかくラグビーしかやっていなかったんです。なので、大学院に入って、頭がからっぽだと痛感するんですよ。[だって(大学)2年生から、伊佐(進一)さんと同じ「航空宇宙学科」に入ったんですよね?]―まぐれで入ったんですもん。[いや、だから皆さん、まぐれって言うんですよ、こういうところに来て]―たまたまその時は、「航空宇宙学科は、多分みんなすごいやつが応募するだろうからやめておこう」という学生が続発しまして、そういう人たちが自ら引いたんですよ。それを私は突っ張って入れて、私が最後の一人だったわけなんです。だからギリギリ…。運が良かっただけなんです。[それは、ラグビーをやりつつ、星が好きだったということで宇宙に対する憧れがあったんですね]―そうですね、空とか宇宙が大好きなんで、どうせだったら好きなことに応募して、留年するならそれはそれでいいや、みたいな開き直りがあったんですね。[大学院では何を?]―やっぱり航空宇宙を続けていました。材料の研究なんですけども。大学院時代、アホだということを認識して頑張るんですけど、大きな失敗をしでかして…。[大きな失敗って何ですか?]―1年間温めてきた研究テーマが、実は結果が出ない、ということがわかったんですね。そこからとにかく分量で勝負するしかないんで、1年で2年分の仕事をしなくちゃいけない、要は2倍頑張るしかない。で、頑張って、最後にはわりと評価をされるような結果を残すことが出来たんですね。教授から「新妻くんは、頭がいいかどうかはわからんけれども、お前はちゃんとやるな」と言われたんです。それがすごい嬉しくて。やっぱりちゃんとやらなくちゃいけないんだな、ちゃんとやれば評価されるんだな、と学びました。それで大学院を卒業して、川崎重工という会社に入社しました。[やはり理系なんですね。ブレーンとして入ったんですか?]―いえいえ、違います。一従業員ですよ。[でも、経歴が経歴ですからね]―たいしたことないです、山ほどそういう人は入るので。技術系は特に。[そして、アメリカ赴任。川崎重工から出向されたんですか?]―そうですね。大学院で相当盛りかえしたつもりでいたものの、やっぱり仕事ができないことに悩みまして。でもやっぱり頑張ろう、とコツコツ頑張って。ひとつ目標があって、「どうせやるんだったら、世界で最高の技術者と机を並べて勝負したいな」と思ったんですよね。今、飛行機の世界では、何だかんだ言ってボーイングとエアバスが、民間機では頂点なんですよね。「海外勤務希望調査」というのを半年に1回やるんですよ、会社で。それで、○、×、△でいいところを、◎をつけてずっと出し続けていたんです。チャンスがないな~、と思っていたんですけど、30歳になった時に突然課長に呼ばれて、「新妻くん、アメリカに行きたいか」と言われて、即決で「行きます!」と。それがボーイング社の赴任の話だったんです。で、アメリカに渡りまして。アメリカに渡ってすぐに(幸せ度数が)ここまで下がっちゃうんですね。何故かと言うと、英語が全然通じないんですよ。自分としては、飛行機の仕事をするために結構学んできたつもりだったんですけど…。[専門用語も?]―そうですね、むしろ社会人になってから本格的に。でもこれが全然通じないんですわ。マクドナルドの注文も聞き取ってもらえない。でも「頑張らなきゃいかんな」ということで、最後にはちゃんとした結果を残して日本に戻ってきました。[TOEICが凄いと噂で聞いているんですが]―まあ、紙の試験ですから。[最高点が990点で、…何点ですか?]―975点。でも、自分より英語が出来る人なんて山ほどいますから。[ネイティブなんですか?]―全然、発音なんか超カタカナ英語ですよ、笑われるくらいの。通じればOKと割り切ってます(笑)。[そして仕事で失敗して、(幸せ度数が)すごい落ち込んでますね。どういう失敗をしたんですか?]―日本に帰ってきて、わりと重要なあるプロジェクトに「お前の実力を試す舞台ができたぞ」と送り込まれたんです。そのプロジェクトで「全然使えん」と返されちゃったんですね。これは相当ショックで…。で、会社としては私の代わりを出さなくちゃいけない。それで、お子さんの小さい、仕事面でも元の職場で絶対抜いちゃいけない人を抜かざるを得なくなって、ものすごい迷惑をかけたんですよ。これが「本当に挽回しなければいかんな」と思ったきっかけで。それからまたアメリカへ行け、という話になるんですね。[ちなみに、どんな仕事で、何が出来なかったんですか?]―自分があまり経験がなかったタイプの仕事で、でもこれまで6年間も経験を積んできたんだから出来るだろう、と上司は期待して出してくれたんですね。[それも飛行機の機体の関係ですか?]―そうです、飛行機の部品の研究なんですけども。で、会社としてもお客さんの信用を落とすわけなので、会社にも泥を塗る。これは本当にショックでした。アメリカ赴任の機会で何とかするしかないな、と思って。とにかく分量を働こうと、時間を長く働いたんですね、朝から晩まで。それでだんだん評価が上がっていって、最後は顧客のほうから、「彼がいないとこの仕事は回らないから、彼を残せ」と。これは本当に嬉しかったですね。で、日本に戻ってきました。設計から工場部門に転属になって頑張っていくんですけども、途中大きな夢に挑戦しました。[何でしょうか?]―それがこれ(ポスター)です。宇宙飛行士の候補者選抜試験。2008年にありました。約1,000人が応募をして、たった2人から3人を選ぶという、そういう試験なんです。で、通った人はどうなるかというと…(模型を手に取って)この国際宇宙ステーションに。短いミッションか長いミッションかは当局の判断なんですけど、ここに行って作業をする、というミッションが待ってるわけなんですよね。[国際宇宙ステーションはどこにあるんですか?]―上空400キロにあります。地球を一日に16周してるんです。昔から星が好きで、天文が好きで、「このチャンスを逃したら、多分もう次はないな」と思って。しかも、私の航空学科時代の同級生の山崎直子さんが、この10年前の試験に見事通ってるわけなんですよね。その時はどうしても仕事が忙しくて断念したので、「これが最初で最後のチャンスだ」と応募しました。結構本気で応募したんです。英語の試験から始まって、教養検査、かなり詳しい身体検査。で、それをクリアした50人が、今度はディスカッションだとかディベートだとか、チーム力を見る検査や、あとは手先の器用さを見る検査など様々な検査をするわけなんです。自分としては「これ、何とかなんないかな」と思ったんですけど、結局は不合格になりまして、だから(幸せ度数は)マイナス100(苦笑)。[最後の50人に残ったということがすごいことですよね。敗因の原因は何だったんですか?]―多分なんですけど、異常値がありまして。何が異常値かというと…一般の男性の肺活量って、3ℓから4ℓなんですよ。私はその時の肺活量検査で、7.5ℓあった。ペットボトルが5本入るわけなんですよね。だから他の人が酸素不足で困っていても、本人は気が付かない。[それは危険ですね]―あとは、人の倍、酸素を消費する。コストがかかる、と見なされたんじゃないかな、と勝手に思っています(笑)。[じゃあ、もうちょっと体力が落ちたら(笑)]―そうですね、今だったら受かるかもしれません(笑)。[50人って、どういう人が残るんですか?]―医者だったり技術者だったり、研究者だったり、パイロットだったり。不合格になって、そこから仕事で頑張ろう、とコツコツ頑張りまして、昇進の内示を2012年にいただきました。ようやく会社からも評価をもらえたな、と。[課長とかになったんですか?]―課長補佐みたいな役職がありまして。管理職ですね。[試験を受けたことは会社には内緒だったんですか?]―いえ、これはちゃんと言って。ディベートの試験の時は、一週間の休みをとらなくちゃいけなかったんですね。ですからそれは理解を得た形で受けました。[そしていよいよ、永田町への階段が]―昇進の内示を受けた直後に候補者になったので、結局昇進は辞退をしました。[公明党の6人の皆さんにも聞いているんですけど、立候補の経緯というか。いきなり電話があるんですか? それとも自分で出たい、と]―自分で「出たい」という人は、ほとんどいないと思います。[「オレが」というのは駄目なんですよね。他の党は、全部「自分が」じゃないですか。公明党はそこだけは100%違うんですよね。遠山議員も、党の為の活動の延長にあった、とおっしゃっていた]―まさにそんな感じですよね。[創価学会の活動はいつから?]―もう生まれた時からですね。両親がそうだったので。[じゃあ、選挙とかも詳しいでしょうし…]―そりゃあもう、死にもの狂いで頑張りますから。[お友達に電話したりとか]―当たり前です。基本中の基本ですね(笑)。[よく勇気がありますね。だって、仲の悪い子からも電話がかかってくる。どうしてだろう、と思って(笑)]―(笑)そういうものなんで、許してください。[友達に電話するのは恥ずかしいとか、そういうのは全然関係ないんですね、自分の信念のためには]―そりゃまあ、いい顔をしない人もいますよ。[そういうのは別にいいんですね?]―あ、あんまり関係ないです。電話しちゃいます。[信念を貫く(笑)。強いですね、その考えは]―多分、みんな同じだと思います。[営業活動みたいなものですから、そういう下地があればどこを営業しても怖くないですね。すごいですね]―すごくはないです、基本なので(笑)。やっぱりこれをやらないと、よしんば議員の候補になったとしても、命がけで支持して下さる人の気持ちがわからないと思うんですね。そういう人は、議員になってはいけないと思います。[で、どなたから電話があったんですか?]―まあ、公明党から電話があったわけなんですけども。何の要件かなあ、と思ったら「選挙頑張りなさい」と。「いやいや、いつも死ぬほど頑張っているじゃないですか」と申し上げたら、「いやいや、お前が出るんだ」と言われて。散々悩みました、さすがに。[それは、太田昭宏さんとか?]―いえいえ、ちょっと、名前はすみません(苦笑)。[みんな名前になると口ごもるんですよ、どうして?(笑)]―いやいや、で、まあ、散々悩んで…技術の現場が大好きだったので、「技術者としてと(議員として)、どっちが役に立つのかな」って最後は思ったんです。技術屋として頑張っても、ある程度の実績は残せるだろう、と。でももし、技術や産業の背景を持って、政界で産業界の意見をちゃんと出していったら、それはそれで大きな仕事が出来るんじゃないかな、と思ったんです。[秋野公造さんも、「医者をずっと続けろ」と言われけど、医療制度の仕組みをつくりたいということで最終決断をされた、とおっしゃっていました]―なるほど。全く同じ理由ですね。サラリーマンの技術者出身の議員って、すっごい少ないです。でも、もしも議会が日本の国民の代表であれば、産業構成の割合人数は比例させなくちゃいけないんじゃないかな、って本当は思うんですね。そう思うと、「自分みたいな人間が出て行っても役に立てるんじゃないかな」と最後は思って「やらせていただきます」と申し上げたんです。[ご家族の方に反対はされませんでした?]―結構ドライな家族なんで「あんたに任せるわ」みたいな感じで(笑)。[ラーメン屋のお父さんですね? お父さんのお話をもう少し聞きたいですね。「ウィキペディア」か何かに書いていたんですが、お父様がラーメン屋でつくった負債を返された。それ本当なんですか?]―はい、本当です。兄弟でね。確か1千万弱だったと思います。何でかというと、豚骨ラーメンブームが去った後、競合店が近くに出来て、にっちもさっちもいかなくなったんですよね。(父は)わりと仕事は好きな人なんですが、大腿骨を折る大けがをしまして、廃業せざるを得ないハメになってしまったわけなんです。で、その後仕事は引退してしまって。その時父は「もう一度仕事がやりたいんだ」と言っていたんですけど、もし復帰させたとしても赤字はもっと増えるんだろうと思って「おやじ、それはやめてくれ」って言っちゃったんですよね、弟と。これは今でも後悔していますね。男って、仕事がなくなると生きがいを失っちゃうわけなんです。すぐにボケてしまいまして、老け方が尋常じゃなかった。お金に替えられない価値というのを、すごい感じましたね。[じゃあ、もう一回…どうですか?]―父は、3年前に亡くなってしまったんですよ。でも、安らかな最後で。ここまで安らかに亡くなると、別れの淋しさって当然あるわけですけど、何か誇らしく思いましたね。[お母様はお元気なんですか?]―はい、とても元気です。 ●最近の政治トピックス ―最近、台風とかゲリラ豪雨とか、火山の噴火とかすごいじゃないですか。先週は口永良部島が噴火して、その前は箱根、その前は蔵王。災害対策は、勿論どの議員も「大事なテーマだ」と言うんですけど、私はちょっと違うアプローチを考えているんです。災害を防ぐにはどうしたらいいのかな、と思ったら、早く見つけることが大事だと思うんですね。[災害をですか?]―はい、例えばゲリラ豪雨。「どれぐらい強いのが、ここに何時間後に来るぞ」とわかったら、すぐに避難指示が出せますよね? こういうことの研究開発をきちんと進めることが、防災にものすごい大きな力を果たすんじゃないかな、と。[その仕組みづくりをされている?]―そうですね、技術開発の推進と。今すでにある技術で役立てることが出来るものもたくさんあるのに、自由に活用されていない。それと、口永良部島の火山の観測装置が、半分くらいは電池が切れちゃうから使えなくなるんです。私も問題に思って、これまで議会でも2回取り上げてきたんですけど、結局直っていない。こういうやらなくちゃいけない事を着実に進めて、一方で研究開発の促進をして。あとはそうですね、大きな可能性を持っているのが、宇宙の分野だと思っていまして。人工衛星から見る画像で相当のことがわかるんです。火山だったら山の膨らみがわかります。津波だったら、どこまで水に浸かっていてどこの橋が落ちていて、どこが土砂崩れになっていて、というのがわからないと、自衛隊は助けに行けない。こういう情報提供の仕組みは、評価できるところもあれば、まだまだのところもあるわけなんですよね。これに、技術や科学というところから防災に切り込んでいきたいな、とずっと思っているんです。[防災士の免許を取っていらっしゃるんですよね。新妻議員と私の共通点、防災士なんです。自助、共助、公助の精神で。まずは自分を守る、そして目の前の人を助ける]―そうですね。公助で出来ることはまだまだあるな、と思うんです。[公助こそ、バッジを付けた方がやることですからね]―我々がやらなくちゃいけないですもんね。自治体と国との連携をもっともっと強めていかなくちゃいけないな、と思います。[それは委員会に所属されてやっているんですか?]―それ担当の委員会はないので、全てを扱える予算委員会と決算委員会の場で、そういうテーマを取り上げるようにしています。[発言のチャンスは結構あるんですか?]―小政党なので、有難いことにこういった質問の機会はたくさんいただけるんですね。[軽減税率もいいほうにいきそうですね]―まだまだこれからなので、決して予断を許さない状況ですが、最後まで詰めて行かなくちゃいけないな、と思います。[皆さんと話してよくわかったんですが、公明党は自分が派閥を作ったりとか、そういうのは有り得ない。皆さん平等に、公明党の理念のもとにやっていく、ということですよね? それがいいのかもしれないですね]―そうなんだと思います。[最初の人選もいいんですね、そこで変な人が入っちゃうと「オレも、オレも」って言いかねない]―残念ながら、過去にそういう議員はいましたからね。個人名はあげないですけど…。党に居られなくなるんですよ。そういう残念な歴史を反省して、我々は二度と過ちを犯さないように前へ進まなくちゃいけないな、と思うんですよね。あとはやはり与党協議の場では、自民・公明の議員数は8対1なわけです。 我々が団結しなければ勝てっこないわけです。本当にきちんと団結をしているから、自民党の皆さんもきちんと我々の声を認めてくれるんじゃないかな、とも思っています。[自民党がこれ以上勝ち過ぎちゃうと、また公明党としての立場が…]―いやいや、それはまあ選挙民の皆さんの判断ですから(苦笑)。[住み分けがよく上手くいったな、と。上手くいくわけがないと思いましたけどね]―政策的には対極ですもんね。個人的に「すごいな」と思っているのは、自民党という政党は、あれだけ幅の広い意見を持った議員さんがいる集合体でありながら、きちんと最後は意思決定が出来る。これがすごいと思うんですよ。[けんかしつつそれを見せてショーにして、国民の注目を得る、というのが十八番ですからね。上手いですよね。あとはどんな政策を?]―私は飛行機の仕事をやっていまして、(模型を手に取って)これは「ボーイング787」という飛行機です。この「ボーイング787」は、私も9年間、設計と現場部門でこのプロジェクトに携わりまして。誇りに思っているのは、日本の技術がなければつくれなかった飛行機だということなんです。もちろん完成機はボーイング社の責任ですけど、重要な部品をつくっているのが、日本の三菱重工、富士重工、そして川崎重工なんです。日本が機体の重さの35%を分担しているわけですよ。しかも、この羽…羽は飛行機の肝にあたるんですが、三菱(重工)さんの高い技術力を買って「日本に任せる」となったわけです。この飛行機の半分が、カーボンファイバーをプラスチックで固めたもので出来ているんですが、これをつくっているのが、日本の「東レ」という会社なんですよ。東レさんがいなかったら出来なかった飛行機だった。こういう優れた部品をつくっている日本でありながら、実は民間機をまるまる一機つくることはしばらくやってなかったんです。「YS11」をやって、結構いい飛行機だったんですが事業としては失敗して、「もう部品メーカーでいいよね、防衛省の機体だけやってればいいよね」ってなっちゃったんですよね。[それはどこの会社なんですか?]―これは日本の重工各社全部です。でも、つい最近なんですが、三菱重工が「MRJ」という国産旅客機を飛ばすぞ、というプロジェクトが、今まさに最終局面にある。日本で完成機をつくるの半世紀振りなんですよね。完成機をつくるのが一番儲かりますから、航空産業を後押しするような法律の仕組みを整備しなくちゃいけないんじゃないかな、と。あとは、今ブラック企業が大問題になっていますよね? 各党も当然取り組んでいるんですけど、我々の強みというのは、地方議員さんと密接な連携があるところなので、どんどん相談の電話が来るわけなんです。[でも、働くほうにも根性がない、って思いません?(笑)]―いや、「明らかにこれは会社の責任だろう」っていうことも山ほどあるんです。それに今、結婚しない男性・女性共に増えているので、政治も、婚活まで踏み込んで取り組まなくちゃいけないんじゃないかな、と。その他にも様々な青年政策を…若い人の住む所の家賃がすごい高いので、これじゃ残るお金がなくなっちゃいますよね、特に東京近辺なんて。だから結局遠い所に住まなくちゃいけなくて、これだと体力的にもしんどくて、お子さんを作ろう、という気にもならない。こういうところは本当に是正していかなくちゃいけないな、と思うんですよ。[役人とのお付き合いはどうなんですか? 創価学会の役人さんっていらっしゃるんですか?]―後で「あ、あの人そうだったんだ」ということはあります。[やはり話しやすい?]―でもその時はお互いに明かさないものですから…向こうは一官僚として、こちらは一議員としてなので、個人的なそういうところはおいといて仕事の話をする。甘えにもつながってしまうので、いい意味で距離をきちんと保って、ということです。 ●今だから言える、あの日のあの出来事 ―今でこそ、議員として「愛知・中部の顔」みたいに頑張っていますけど、本当は、学校を卒業して、この中部の地域がものすごく嫌だったんですよ。なんでかというと、名古屋とか中部圏の人はとにかく皆「ミャーミャー」喋っているんだろうな、と。[間違いないです]―すごい閉鎖的なんだろうな、と。[間違いないです]―みんな、特に女性はキンキラキンなんだろうな、と。[間違いないですよ!(笑)]―すごい先入観があったんですよ。でも、仕事としては自分が志望した通りの会社に入れたので、結構ニュートラルな気持ちで独身寮に入ったわけなんですよね。で、薄暗い寮の食堂で、最初のご飯がトンカツ定食だったんです。370円払ってトンカツをもらったら、見たことのない赤黒いものがドロッとかかっている。「何だこれ、おばさんソースないの?ソース」って言ったら「とにかく食べてみゃー」と言われたんですよね。[ミャーと。出た(笑)]―「えー、これ食べるの~?」と思って、とにかく食べてみたんですよ。それが生まれて初めての味噌カツだったんです。これがムチャムチャ美味かった!それで、薄暗かった寮の食堂がバラ色に変わるわけなんですよね。「何ていい所に来たんだ!」と思って。あとは恥ずかしい話が…。学生時代、寮に住んでいたんですけど、ラグビーの合宿があって1週間ちょっと部屋を空けたわけなんです。で、戻ってきて寝たら、翌朝身体が真っ赤っ赤になってる。「何だこれは!」と思ってネットで調べたら、ダニに噛まれたらしい(笑)。友達には「急性アトピーになっちゃった」と嘘ついて。すぐにひいたから良かったんですけど、そんな事もありました。あとは、学生時代の貧しい頃、頼りにしていたのが近くのお弁当屋さん。パンの耳がたくさん入ってて5円だったんです。それと寮の食堂で、食事をとるかとらないか丸をつけて申し込むんですけど、たまに制限時間に戻ってこられない人がいる。それを「残食」と言うんですけど、時間が過ぎたらもらって食べられるので、それが私の主食だった時代がかなりありました(笑)。[お父さんはその時ラーメン屋をやられてた。仕送りはあったんですか?]―ありましたけど、「足りなくなったからちょうだい」とは言いづらいですよね。ラグビーにそれなりにお金がかかったし、アルバイトでどうしてもカバー出来なかった部分があったので。[でも、家庭教師とかやられてたんでしょ?]―やってました。でもそれでも足りない分があったので、パンの耳を買い、残食を狙って並び、ギリギリ1分前に食事を頼んでいた学生が来たら「もう!」と怒って帰る、みたいな。そんな学生時代でした(笑)。[ひとつ聞きたいんですけど、麻布中学で(新妻議員を)いじめた方、今何やってるんですか?]―チームプレイ的ないじめだったけど…みんな今は立派ですよ、多分(苦笑)。官僚だったりサラリーマンだったり、事業を経営していたり医者をやっていたり。まあ、それなりの仕事をしています。[それなりの…許せないなあ]―そんな事ないですよ、和解してますんで。[でも、ちょっと思い出すでしょ?いじめられたこと]―そのあと自分が頑張って、最後は友達からも評価されるようになったので、自分の中ではそこでもう勝ち、みたいな。[それがあったから今がある。もともと能力は高いんでしょうけど、更に色んなことで頑張れたんでしょうね]