星野 つよし
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第95回
2013年10月30日 放送

自民党 星野 つよし 衆議院議員

(以下、動画より文字おこし)

自民党 神奈川12区 1期目

覚え易い名前。名前を覚えて貰って投票して貰って出来る仕事なので、分かり易い覚え易い名前だというのは幸運かなと。(ご紹介を頂いた橋本岳さんとは)すごく仲よくして貰って、実は最初に県会議員に出た時に31歳で、岳さんとは全く違って親父が政治家ではないので、新聞記者を辞めて出た時に泡沫候補扱いだったが、その時に当時の橋本龍太郎氏が通産大臣で藤沢にわざわざ応援に来てくれた。今の進次郎さん位の人気があった。それで知名度が少し上がってギリギリ70票差で当選した。その時の話を(岳さんと)知り合いになった時に「実はお父さんにすごくお世話になって」という話をした。(自民党の良いところかも)―そうかも知れない。代々色々な事があるので。義理人情の政党、保守政党だし、代々そういう事は挙げていたらきりがない位ある。※リーフレット紹介(ベイスターズカラーですか?)―そうです。これは☆のマークだが20年位使っているので定着している。女の子たちに渡すと「私このマーク知っているが勝手に使っていいんですか?」と言われるが、これは元々自分のマーク。産経新聞社を退社して県議会議員に出る時に、同期の仲間がデザイナー部にいて作ってくれた。星のマークなので最初の一文字は思い出して貰える。名前無しでマークだけのシールもある。

●幸せ度数年表

(ダブルクリックで拡大)

第95回星野つよし

1963年8月8日生まれ。生まれたのは東京だが2歳の頃に今の神奈川県藤沢市に来ている。(どんな家庭でしたか)―政治家ではないが、2年前に亡くなっている父親は自由民主党の職員で永田町に通っていた。親父は選挙をやっていないが、幼稚園の頃から選挙速報を見ていたので、家業とはいえないが政治は近かった。(角福戦争は当時見ていた)―勿論。変わった親父だったようで、職員の分際で国会議員を怒鳴り飛ばしていたと、よく古い先輩たちに「お前の親父に怒鳴られた」というのはある。(生まれた時から自民党)―そうですね。自民党で育てられたと言ったらまさにそう。子供心に党本部3階の親父の席で遊んでいた覚えがある。「ちょっと待ってろ」と。(お父様は良い時代にいた)―そうだと思う。衆議員に当選する前に亡くなった。見せてやりたかったとすごく思った。これは運命だから仕方ないが。(産経新聞には)―ませた子供だったのか、小学校の卒業文集には「将来政治家になりたい」と書いてあった。(学級委員とか)―やっていた。(産経新聞出身の政治家は)―産経新聞の政治部というと自分がここに来るまでは20何年間空いていてその前に産経新聞の記者だった人で衆議員になったのは額賀さんだった。額賀さん以来衆議員はいなくて、自分が当選して、この前の参院選では一緒に仕事をした上司だった北村経夫さんという政治部長までやった人が参議員に受かったので、ここにきて産経政治部出身は衆・参に生まれた。その間20何年間空いている。(産経新聞で最初の配属は?)―立川支局。当時多摩支局と呼んだが、察まわりと街ネタをやっていた。それを2年。その後は政治部。割りと早く政治部に上げて貰った。3年目の春から政治部に上げて貰って、首相官邸からというのが定番。総理番といって、まずは単純作業の総理官邸に行って、今の官邸ではなく昔の、首相公邸になっている所の横に番小屋というのがあり、そこで張っていて、入って来る人に「今日は誰ですか、総理ですか」と聞いて報告するというのが一番最初にやらされる仕事。何時何分に誰が入った、誰が出た、という。(その時の総理は)―海部さん。(バブルの頃)―そうですね。(海部さんは今民主党?)―微妙な状況にあるから正確には(言えない。)その後ずっと政治記者で30歳の時に辞めて、31歳の時に県議会議員に出る。自民党公認で出たが親父がやっている訳ではないので、市会議員も経験しないでいきなり県会に出て何者だと相当反発もあって、5人区だったが最下位当選(県議)。今だから言えるが自分は(記者時代)清和会担当で福田赳夫さんにすごく可愛がって貰っていて「お前県議員選に出るんだったら今自民党あまり人気が無いから無所属の方がいいぞ」と。本当に引っくり返りそうになって(笑)元総理にそんな事を言われて参ったなと思った。本人も最初に衆議員に出たのは自民党ではない。協同党か何かだった。フレキシブルだった。最後70票差で当選をした。(薄氷)踏んでいる。開票率98%で3人残っていた。2つしか議席が無いところに3人いて「これから残票整理に入る」と言われてロシアンルーレット状態、3人で残票を整理しているので。今でも覚えているが、そこで電話が入って15842票、5番目で。6番目の人と70票差だった。それで奮起して2回目は2位当選、3回目はトップ当選だった。そんなに予定通りという訳ではないが「70票差を忘れるな」というポスターは事務所に選挙の度に貼ってある。(県議は3期務めた)―12年。そして落ちる(↘)。44歳の時、43歳まで県議をやり、1年弱あって藤沢の市長選挙に出た。出たのは良いが2008票差で負けるわけ。ここから地獄が始まる。どん底。(それから衆議員初当選まで)6年弱あった。これはある意味自分で望んだ結果の失敗。政治家にとっては地獄。食べていけないし、家族もいたし、次復帰しようと思ったらその間活動は続けなくてはいけないし。二重苦、三重苦、四重苦みたいな。人はドンドン離れていくわけで。2008年。(自民党が一番人気の無い時と)重なる。最初の選挙とこの時は自民党がもう悪くなり始めたところで、2009年に大負けをする…※ここで宮崎謙介議員から電話が入る。(その時は自民党を辞めようと思ったか)―それはない。自分はすごく恵まれているというか、「捨てる神あれば救う神あり」ではないが、2009年に大敗を期して下野する、自分は2008年に市長選に落ちて「自民党政治はもう嫌だ、民主党に一回やらせてみよう」という世の中で、それから1年位経った時に神奈川12区で公募をやり、新しく支部長を選び直すという事が決まって、そこに手を挙げた。公募なので党員投票までやって、有難い事に9割近い人が「星野つよし」と書いてくれて3人程決戦投票までやった位。2010年の6月位までには12区の支部長に決めてもらっていたので、そうは言いながらもまだ活動はやれたのかなと。それは最後有権者が決める事だが、自民党の場合は今度の新人115人、参議院から移った人を抜かして115人、この人間たちが出て来られたというのは、それはやはり長い歴史と地域に根ざした地方議員も多く、落選経験をしている人も相当いる。地方議員とか、あとは他の仕事をしていた人、そこの人材ネットワーク、人材バンクみたいな話でいうと、それは他の政党を圧倒しているというのはあると思う。他の政党は○○塾と、この指とまれと言って集めて来なければいけない。そうではなくて全国津々浦々から人脈があって選べる。そこはやはり最大の強みだと思う。(3.11の時にそういう人脈の大切さに気づかされた)―全くその通り。どんな所に行っても必ず支部があって「皆根室までは来るが根室で帰る」と言われ、羅臼の人たちから「一度位羅臼にちゃんと来い、衆議員が来た事が無い」と言われ、領土の為の特命委員会というのがあるが、そこの十数人で行ったら、羅臼町長、自民党羅臼支部長とか皆居て、町長より羅臼支部長の方が先に挨拶をする。本当に北の大地に行ってもここまで根づいているのだ、やはり強さだなと。沖縄に行っても北海道に行っても何処に行っても必ず皆いて、それぞれ頑張っているというのは強みだと思う。

●最近の政治トピックス

いくつか政策分野はあるが元々産経新聞の時に外務省担当が長かったというのもあるし、自分は結構事件を呼ぶ方だが、外務省担当記者になった日に湾岸戦争が起きた。記者クラブへ行った日に湾岸戦争が起きていて、テロップを見たら「イラクがクゥエートに侵攻」と。「中東ってやっぱり大変だよね」と思っていたら冗談ではなくその日からずっと帰れなくなって記事を書かなくてはいけないのは自分たちだというのは後から気がついた位。その間でも日朝国交正常化交渉の時の特派員として北朝鮮のピョンヤンに行っている。行きたくなかったが「いいから行って来い」と。20年前だから言っても良いか…産経新聞は一番北に対しては厳しい新聞でもあったし、自分自身が当時から核開発、核弾頭を作っているという核疑惑をずっと連載で書いていた張本人なので、相当危険だなと思っていて、当時の政治部長が「もしかしたら拘束されて帰って来られないかも知れないが家族の事は心配するな、社が何とかする。フジサンケイグループは君が帰って来るまで「星野君を返せ」というキャンペーンはやり続けるから憂いなく行って来てくれ」と言われ「えー!!」と思った。「考えてみろ、万一拘束されて何年か後に戻って来たら、貴重な体験を持った一流記者になれるのだからここは考えようだ」と言われ「全然言っている意味分からない」(笑)と思ったが、自分でも興味があって、やはり現地を踏んで北朝鮮で何が起きているのか、勿論制限されているが、そこの大地を踏んで自分の目で見たいという記者魂みたいなものがあったので。実際に行ったら当時の外交部長でキムヨンスンという悪い人がいて、この人が拉致の実働部隊を指示していたという、日本で言えば外務大臣みたいなもの。晩餐会をやってくれて、目の前に座っていて「あなたの記事はよく読んでいる」と。「あなたの記事は我が共和国に対して非常に敵対的だ。ここはピョンヤンなので気をつけたまえ」と話をされて、これは本当の話で、自分はまだ27歳位で血気盛んなので今はおとなしいが、(その時)立ち上がって「そういう事を西側のジャーナリストに言うからうちの新聞は書くのであって、今の言葉を取り消してくれ」と言ったら、周りにいた他社の人が手を引っ張って「ここはピョンヤンだからとにかく辞めろ」と止められた。この人は10年後位に交通事故で亡くなったと発表があった。だが行って分かったが、ピョンヤン市内に車など走っていない。どうやってピョンヤン市内で交通事故に会うのか。これは自分なりの解釈で言えば、これは何らかのミスをして粛清されたとしか思えない。当時そういう事はあった。そんな事もいくつかあるが、その中の一つとして専門的に取り組みたい分野として外交安全保障に取り組んでいきたいという思いがあって、今は国家の安全保障に関する特別委員会がこの臨時国会で作られてそこのメンバーとして審議をずっとしている。2回目の審議で今日は7時間やっていた。2つの法案を審議する特別委員会で、順番にやっているが、今やっているのはNSCという国家安全保障会議、これを作りましょうという法案。日本版NSCと言われても分かりにくいと思う。今でも安全保障会議というのはあるが、分かり易く言うと少し形骸化している。今度作る国家安全保障会議は、いくつかの大臣、普通は四大臣、九大臣とか、何か他の事が起きたら所管をしている大臣を呼び込む緊急会議というこの3種類位あるが、その下に国家安全保障局というのが首相官邸になると思う。内閣から出ている法案。最大の目的は「今まで無かったの?」とよく言われるが、首相官邸に情報を上げ、夫々外務省にも防衛省にも情報関係の部所があって、あとは警察庁とか警視庁の公安部とか色々な治安機関から情報機関からあるが、それが例の如く現状縦割りで、インテリジェンスという情報がちゃんと官邸に吸い上げられていなかった。首相官邸までなかなか上げられないし、上げられてもそれを専門に取り扱う部所が無かった。それぞれ防衛省は防衛省、外務省は外務省でやっている。情報の共有もできない。それを今度は共有し、集めるのが目的ではないので一番大事なのは日本の安全保障、外交政策、それを決める為に情報を集約し、集めて今度それを分析していく。ではどういう政策を作っていこうか、もし緊急事態が起きてもその場で判断をしていく為に情報を集める。普段の時は5年後10年後に向けてまず今年はこれをやろう来年はこれをやろうという、中長期の戦略と言っているが、そういう計画を立てる部所が今まで無かった。アメリカにはある。だから日本版NSCと言っている。アメリカにはあるし、どこの主要国にもほぼあるが日本には無かった。総理、もっと言えば内閣の考え方―安倍政権としてこういう物が必要だという事。勿論選挙の時にも公約にうたっている。選挙に勝たせて頂いて政権を作ってこれから本格的にやろうという事。そういう意味ではそんなものが無くて何となく平和だったという事から脱皮しないと北朝鮮のミサイルの問題もあり、尖閣諸島の問題もあり、のほほんとボケーっとしていて日本の平和と安全と国民の生命、財産が守れる様な環境では無いという事を私たちは多くの皆さんがたにちゃんと正確に伝えていかなくてはいけないし、「今度作る安全保障会議、安全保障局はこういう目的の為に情報を集めて分析をして政策を作っていくんですよ、何か緊急事態があった時も例えば国内の大震災とか津波の時にも起動する、国内の安全保障が脅かされている事態だから全省庁が集まって、総理を本部長に即座にそのNSCが動き出す」という事もある。今日は7時間、菅官房長官、外務大臣、防衛大臣が答弁されていた。

Q: アメリカにはCIAなどがあるが日本ではどの様に情報収集をするのか。
A:議論としては、近い将来考えていかなきゃいけないと思う。今やっている日本版NSCは新たな情報機関を作るというのを全く含んでいない。ただ普通に考えて近い将来、日本独自の情報機関はしっかりと作って、国家の安全保障に極めて重要な情報は世界各国から獲得して来る事は必要だと思っている。アメリカのカレッジを卒業しているが、その時の研究テーマが「CIA」。ラングレーに通ったり、大学でずっとCIAを研究していたが、情報機関というのは非常に難しい面もあるので、今仰った様にCIAなどは時々暴走したり、時々というより結構暴走している。(メルケルさんの問題は)―あれはNSA。国防総省の中にあるインテリジェンスの組織。今日も質問に出ていて「これは明確に違う」と敢えて言っていた、政府側が。混乱する。あれは国防総省の情報機関。アメリカは幾つもある。将来的には必要だと自分は思うが運用を間違え暴走を始める情報機関があると、今回の事みたいに…あれが暴走なのかまだ事実は分からない。自分は言う立場にはないが万一暴走だとすると情報機関というのはそういう危険もはらむ機関なので、そういう事も注意して運用していかないと逆に国益を損ねる。今回の事がもし事実とするなら相当アメリカの国益は損ねている。逆に言えば切迫しているという事。安定しているからやれるというのも一つ考え方としてはあると思う。国家の安全保障に関わる指令塔が現状無いというのを1年も2年も今の段階から放っておけるか。法案が通れば当初60人規模で国家安全保障局というものを作って即座に動き出す。何が何でも臨時国会中に我々は通したい。審議は明日、明後日毎日の様にやる。本会議の時以外はやっている。今日も9時から12時までやって1時から5時までやって、7時間コースと言うがずーっと。是非注目してください。日本大学の法学部新聞学科という処を出ている。産経新聞社とは入社する前から縁があった。大学のクラブが弁論部で、昔メザシの土光さんという方がいて、臨調=臨時行政調査会をやった人で、フジサンケイグループの土光杯弁論大会が25年ずっと続いていて来年1月11日に審査員で呼んで貰っている。なんで審査員に呼んで貰っているかというと、第1回目に自分はフジテレビ杯を貰っている。産経新聞社とは縁がある。その時にヨーロッパ往復航空券を貰った。当時は高価だった。その代り条件があった。「ヨーロッパ各国を周って多分食べる物が無いだろうから、その時はヨーロッパにある産経の支局に周りなさい。そうしたら支局長がご飯だけは食べさせてくれる。その代わり行政改革で行く訳だから記事もちゃんと書いて」と言われた。学生のレポートと言って行革レポートを書いて送って(紙面に載った)。入社前からそういう縁があった。アメリカから帰って来て期間が無くて、当時サンケイグループのセミナーがあって、新聞記者職の漢字の試験は結構難しく、100問あったのに1問も出来なかった。これは結構衝撃的で、当時の社長鹿内ジュニア、会長鹿内さんの息子鹿内ジュニアだったが、最終面接の時に「うちの新聞社って日本語の新聞社だって知っていた?なんで漢字が1個も書けないの?」と言われ「ジャパンタイムズ紹介してやろうか?」と言われ、最終面接の社長の言葉が「ここはジャパンタイムズではないからジャパンタイムズ紹介してやるよ、うちは日本語で書いている新聞だ」と言われて絶体絶命、四面楚歌。この時に切り返した「社長安心してください。僕は根っからの日本人。日本語はただ忘れているだけですぐに思い出すから安心してください。僕は日本男児だから」と自信を持って言ったら「結構お前面白いね」と。多分それで受かったと思う。そう言わないでシュンとして「そうですね、漢字1個も書けませんし」と下を向いたらもうダメだったと思う。開き直り。あれで気に入って貰ったのだと思う。面接の参考にしてください(笑)。絶対絶命になったら開き直る。放り出してもちゃんと取材して来るというのは見てくれたと思う。

●今だから言えるあの日のあの出来事

忘れもしない産経新聞社の2年目の夏、ポケットベルが鳴り響いたので社に電話をしたら「大変だ、連続幼女殺人事件の犯人が、お前が担当している八王子署に捕まって逮捕されている」と。ここからあの宮崎勤の連続幼女殺人事件が始まるが、何十年かに一度の大事件だし、それで何が起きたか…宮崎勤のお父さんは五日市町で印刷会社をやっていた。傍らミニコミ誌、新聞みたいな物を書いている記者だったので、五日市町のブリーフとかに行くとよく記者会見室で会っていた。知り合いだった。他の記者も宮崎勤のお父さんの事は知っていた。そこで宮崎勤の家に直行した。(かなり早い段階で)電話があったから分かった。本来であれば江東区に捜査本部があるが、捜査本部も動揺したと思うが、現場保存を指示していない。それで江東区から延々と中央道に乗って八王子方向にある五日市に向かっている。現場保存していないから地元の記者が行ってお父さんに詰め寄った「お宅の息子さんらしいよ」と。そうしたら「うちの息子のわけがない」「それだったら部屋の中を見せて」と言って部屋に入れた。だから宮崎勤の部屋の写真が写せた。そういう背景があった。普通は考えられない。容疑者の部屋が写ったのはそういう状況があった。(父親は)「絶対自分の息子ではないから」と。江東区の捜査本部のミスもある。現場の方でも地元の警察に言って黄色いテープを貼らせれば良かった。もうオープンだった。それで警察がようやく着いた時には皆記者は帰ってしまっている。皆記者は支局でネガを印刷していた。それでああいう写真が出た。今だから言える。もっと凄いのは、読売新聞の関係者がいたら怒られるが、その後世紀の大誤報を打つ。「宮崎勤が幼女を解体した山小屋、アジトがあった」というのを大々的一面トップで打った。それで電話を貰って、当時はデスクも口が荒いので「お前抜かれてるんじゃないか?明日の記事書かなくても良いから辞表を書け」と。「辞表はいつでも書くが、どういう記事か?」と聞いた。相手は興奮しているから「辞表書くからチョッと待ってください、何を抜かれたのかを教えてください」と言ったら「「宮崎勤のアジト見つかる」というトップ記事だが、何でお前は見つけてないんだ?」と。「ではどういう写真なんですか?アジトはどういう形なんですか?これから見つけて来ます」と言ったら「何言ってるんだ小屋の写真は写ってない。小屋に続く径の写真が写っている」と言う。その瞬間に自分は感覚的にこれは「とばし」と言って裏を取らないで、当時は読売は現地の記事では抜かれていて産経と朝日が抜いていたので焦ったのだと思う。「じゃ分かりました。探しに行きます」と言って山に入ったら、読売新聞の同じ警察担当の同僚が山にいた。「おかしいじゃないか、なんで山にいるの?」と言ったら「俺たちも今探してるんだ」と言うから「新聞に載っけていてふざけるな」と。木蔭に連れて行って「どうしてお前らがいるんだ?」と言ったら「俺たちも探しているので一緒に探そう」と。そのニュースを見て機動隊が2千人規模で山に入った。そうしたら悪い事に夕立になってしまい皆ズブ濡れで遭難者が出なくて良かったが。恐ろしい事件。今だから言えるが、お母さんは知っていたと思う。凄く恰幅のよかったお母さんが半年位で病気ではないかという位物凄く痩せた。これは母親が一緒に生活していて何かに気が付いたのではないかと推測はできる。(3億円事件はどうなったか)―それは聞かれても分からない(笑)。当時法務省を担当した時に法務大臣が替わって、後に大物官房長官と言われる梶山静六さん、橋本元総理の時の官房長官、元軍人、陸軍士官学校の。それで梶山さんが来て、いきなりの記者会見で「インタビューを完オフ(完全オフレコ)でやろう」という話で完オフでやっていた。それで梶山さんが何かの例えの時にアメリカの街の治安について言ったのだと思うが「アメリカなんかでは黒が入って来ると白が出て行ってしまう」と、白黒発言でその後大問題になった。完全オフレコなので「ん?完オフだから大丈夫だ」と思ったが、幾つかの社が完オフ破りをやった。特に通信社のうちの一社が。記憶にあるが(社名は)まあいい、2社あるうちの1社が流しちゃった。それで大騒ぎになって、今度自分がやられた。デスクから「こういうのがあるけどなんでお前は記事書かないの?」と。本社からすぐに呼び出しになってしまい「なんで書かないの?通信社から来ているのに」と。「すみません、それ完全オフレコでやっていますから」「だけどもう完オフじゃないじゃないか、通信社が流してるんだから」「そうですけど完オフという約束でやったので僕は書きません。信頼関係だから僕は絶対にこの記事は書かない」と言ったら業界用語で「特オチ」というのになった。1社だけ書いていないのを「特オチ」という。「お前がそこまで言うなら分かった、記事書かなくていいから辞表書け」と。そこでまた辞表を書く事に。何度かそういう事はあったが紙を渡されて「書け」と。本当に書いたか記憶が定かではないが「記事を書かないなら辞表を書け」と。それでトボトボ帰って来たら社の結構骨っぽいのが通信社の記事も載せなかったから完全に「特オチ」。大問題になって結構騒がれている時に産経だけが1文字も載せていなかった。全責任は自分。その後その話もワーワーと人種差別だとかいう話になったが、一切自分は完オフの話は書かない。梶山静六さんはその事で物凄く可愛がってくれた。今だから言えるが、内容は時効にならないから言えないが、梶山さんから社長賞を貰った抜きネタ、トップニュースを3本は書いている。今でも梶山ひろし先生に可愛がって貰っている。県会議員選挙に出る時に、当時官房長官だった梶山静六さんに「県会議員選挙に出ます」と言ったら、官房長官室から藤沢にいるご自分の知人に電話をしてくれた。今でも支援者。小泉さんのところに同じ様に言ったらアッサリしていた。(純一郎さんが)「絶対これだけ守れば選挙に当選する秘宝を教えてやる、聞きたいか?」と言うから「是非聞きたい」「これを守れば絶対当選するから耳の穴をかっぽじってよく聞け、とにかく選挙区を回れ」「はぁ?」「以上、終わりだ」(笑)。自分で聞いた話だから言えるが「それは分かっているがその先を紹介してくれと頼みに来たのに」と思いながら。でも今でもそれを守っている。「回れ。以上」

●質問コーナー

Q(SNS):好きなタイプの政治家は?
A:梶山静六さんとか。今で言えば菅官房長官は心から尊敬している。あんなに苦労して上がって来た人というのは自民党では(少ない)。秋田から一人で出て来て夜間の大学に行ってという、そういうところから始まっている。我が党でそういう人は少なくなっている。
(自分の)若い頃は…地元の人は分かっているがヤンチャだった。もう有名だった。これは隠しようがない。