玉城 デニー
玉城バスト3
第201回
2017年02月22日 放送

自由党 玉城 デニー 衆議院議員

基地に勤務していたアメリカ人のお父様と、日本人のお母様の間に生まれる。

現在は国会議員としてスーツ姿のデニーさんに違和感はないですが、

政治の仕事の前までは、インテリア、音響、そしてラジオのパーソナリティというお仕事だったため

「自分のスタイルは、Gジャン、Tシャツ、ジーンズが定番だった」と話します。

最近の政治トピックスのコーナーでは、

「沖縄基地関連のGDPは、1972年は15%で、現在は5%。」と、愛する今後の沖縄のあり方を懸念します。

今だから言えるあの日のあの出来事のコーナーでは、

帯のラジオ番組をやっていたとき、新聞社が先行し「玉城デニー市長選出馬へ!」と書かれてしまい、

次の日にはパーソナリティは違う人に変わっていたという、仰天なお話をしてくださいました。

番組終了後は、視聴者から来たコメントに目を通し、

「こう話せばよかったかな~」などと、優しさあふれるナイスガイなデニー議員でした。

 

自由党 (沖縄3区)  3期目 (2017年 2月 22日 収録時点)

[これからいろいろお話させて頂きますけれど、いい顔をされてますね] ― (笑) ありがとうございます![最近、自分の家系を調べたらずっと日本人だったんで。混血とかハーフ言われるのはいろいろあると思うんですけど、見た目が何割と言われる世界では羨ましいですよね] ― 実際、上手く作ってもらいましたので。(笑) 家の父がアメリカ人で母は沖縄、日本人なんですけど。母方の兄、叔父の顔に良く似ていると言われて。[日本人じゃないですか?] ― はい、叔父もどちらかと言うと、端正な顔だったみたいですけどね。[日焼けをされたということなんですけど] ― 日曜日に沖縄マラソンという、沖縄の地元の市町村を走るマラソンがあって。毎年、沿道で応援しているんですけど、とっても天気が良くて、暑かったです。[沖縄の方が言うので間違いないですね、本当に暑かったんでしょうね。今日は201回目ということで、前回の200回は私の地元の副官房長を今やっている萩生田光一さんからの紹介で、茂木敏充政調会長に来て頂いたんですよ。玉城デニーさんを紹介していたのは199回の藤野さんという共産党の方なんですけれど。共産党の方からお話が行ったということですね。どういうつながりでしょうか?] ― 特にこれと言ったつながりはないんですけど、次は自由党あたりどうかなということで、お話を頂いたんだと思います。国会内では幹事長会議とか、野党の国会対策委員長会議の時には集まりますけど、普段は委員会でそれぞれ所属して活動しているくらいで、党と党が何かやるということは特にないですね。[今、自由党は何人いらっしゃるんですか、国会では?] ― 自由党はですね、6人います!(笑) [6人いらっしゃる、もうちょっと欲しいですね] ― 本会議で登壇して発言したりとか、もう少し数が膨らんでいくと本案提出という形での動きが出来ますから。そこは国会はある程度、数がいると発言する機会が増えるということですね。[玉城さんは政治の歴史的には何党から何党を経て自由党になったのですか?] ― 市議会議員に当選した時は無所属だったんですね。リベラル系の無所属で。民主党のいろんな方と接点が出来て。いろいろ勉強している内に小沢一郎という人の考え方に感銘を受けてですね、それから2005年に最初の国政選挙に挑戦するんですが、その時、民主党公認。2005年の時には惨敗するんですけど、それから4年後の2009年に初当選する時は民主党。[民主党が政権交代した訳ですからね] ― 2012年の自民党政権に戻った時には、日本未来の党。[どなたがやっていた政党ですか?] ― 嘉田さんですね、滋賀県知事の。未来の党から生活の党にすぐ名前を変えましたので、2014年は生活の党で当選しました。昨年の10月12日に自由党に改名をして、今は自由党を名乗らせて頂いています。[思想信条は沖縄代表をされているということで、変わってないと思うんですが、政界渡り鳥と言うくらいの] ― ちょうど、生まれも育ちも沖縄ですから渡り鳥の中継地と考えて頂ければ。(笑) [自民党の一強時代、世界一安定した政権の中で、一応、野党なんですね。なかなか大変じゃないですか?永田町内ではマイノリティーな訳ですから] ― そうは言っても、8万9千人余りの票を頂いて国会に送って頂いていますから、私はその人たちの支援にぶれずに応えるということが自分の心情だと思っています。

 

●幸せ度数年表

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[1959年生れ。沖縄県のどちらでお生まれでしょうか?] ― 今は合併してうるま市になったんですけど、与那城村(よなぐすくそん)というという所で生まれました。[お父様が米兵で、じゃあ基地の方で] ― その当時沖縄に赴任していた兵隊で、母と知り合って僕がお腹の中にできるんですけど、父はアメリカに戻ることになって。一緒にアメリカに行って生活しようということになったんですけど、お腹が大きいもんですから、生れてから行くよということで、先に父をアメリカに帰したんですけれど。僕が生れてから、周りのみなさんの説得にあってですね、結局、アメリカに行かないと。私、一人で育てるということで。父と別れちゃったんです。日本とアメリカは同盟関係にあるんですけど、私が聞いたところによると、日本とアメリカのミックスルーツを持っている衆議院議員は始めてだそうです。[アメリカと日本のハーフの方は初めて、そう言われてみればそうですよね]結局、日本って純血国家じゃなくて多様民族国家ですから。[島国と言われてもね、違うんですよ] ― 沖縄もそうですし、日本もそういうルーツがあるので。私はいろんな人たちがいろんなルーツを持ってるというのは、逆にそれだけ多様な声がたくさん集まってくるということがあると思いますので。[沖縄は混血の方が多いですよね、本土と比べて] ― 多いですね。30カ国の国と地域の方々が沖縄に住んでいますから。[30カ国も!] ― 5年に一度、世界のうちなんちゅ大会と言うのが開催されるんですけれども、世界中の沖縄にルーツを持ってらっしゃる、三世、四世ぐらいの方々が来るんですけど。見た目も、あ、沖縄のルーツだねという風に思いますし。三世の方が沖縄に戻って来た時には、日本語が通じないんですよ。その代り沖縄の、琉球の言葉が通じる。一世、二世の方が渡った先で沖縄の言葉で家族と会話していたので、現地の言葉と沖縄の言葉は使えるんです。ところが日本語は知らない。面白いですよね。(笑) [芸能界だって、観月ありささんとか安室奈美恵さんとか日本人だけの血じゃないといいますからね。きれいな子を産むにはハーフしかないですね] ― さあ、どうですかね。(笑) 僕は東北の肌のきめの細かい方を見ると素晴らしいなと思いますね。[男性ならではの発言でいいですね、今のね。(笑) 初めての上京、独り暮らしとあります。(幸せ度数年表を指して)] ― 高校を卒業して福祉関係の専門学校に入学するために初めて上京しました。[どうでした?東京は、冷たかったですか?] ― いや、いろいろ刺激があって面白かったですよ。[顔がいいから、もてるからね] ― そんなことあまりなかったんですけどね。昼間は築地の魚河岸の近くにある豊海町という所のコンビニエンスストアのはしりみたいな酒屋さんで昼間働いて、それから夜は専門学校に行って。それから歌舞伎町のゲームセンターで働いたことも。三鷹?武蔵境かな、カラオケの当時、8トラック、カラオケにパカッと入れて、4曲、切り替えるのを工場で作ったり。[ゲームセンターで働いていたんですか?] ― ちょうど、ブロックゲームからインベーダーゲームに入れ替わった時です。タイトーのインベーダーが席巻していた時です。二十歳になって卒業して沖縄に帰って、社会人をスタートします。福祉関係の臨時職員を2年やりまして、その時に24歳で結婚します。それから福祉の仕事からインテリヤ内装業の仕事へ、コンサートの運営会社、それから音響関係、音楽関係の会社で働いていました。そして30歳にタレントとして独立してラジオのパーソナリティーや結婚披露宴の司会などして。[ご地元では有名なんですね] ― はい、知る人ぞ知るみたいな感じですけど。(笑) [その頃から玉城デニーさんというお名前でやられていたんですか?] ― はい、本名は康裕という名前なんですが、僕は名前がアメリカに渡ることを前提に母は私にデニスと付けたんです。ところがアメリカに渡らず沖縄ですっと生活している内に小学校4年生の時に、このままでは暮らし辛かろうということで、家庭裁判所に行って申し出て康裕という名前に変えたんですけど。小さい頃から僕はデニーと呼ばれていたんですよ。友達がデニー、デニーと呼んでいたので。インテリアの営業マンをしていた時に、自分の名刺に玉城康裕の名前の下にかっこしてデニー玉城と書いたんです。そうしたら、あるお客様が「あなた、デニーさんの方が顔と名前が一致するわよ」と言われて。ありがたいことにタレント時代もデニーというカタカナの名前を持っていて沖縄の言葉もしゃべれますから、非常に良かったんですね。[英語はどうなんですか?] ― 英語は中学卒業英語ぐらいですね。中学卒業ぐらいまでしゃべれないかもしれません。ブロークンです。(笑) [そしてタレントさんをやられている時に、沖縄市議会に初当選ということですね] ― 42歳で沖縄市議会議員に初当選して、そこからタレントから今の政治の道に転身したということになりますね。[音響とかインテリア業とかタレントをやっている時に、政治の世界にと思ったんでしょうか?] ― いや、この頃は自分がネクタイを締めるということはあり得ないと思っていました。[どんな服装でしたか?] ― ジーンズに白いTシャツにジージャン。ほとんどこれが定番で、スニーカーを履いてという感じで。よっぽどの、どなたかの結婚式の披露宴に呼ばれた時にスーツを着るぐらいで、こんな仕事をするとは思っていませんでした。[私は国会議員の玉城デニーさんしか存じ上げていなかったので、これが定番という感じなんですが、意外ですね] ― 白いTシャツにジーンズが定番でした。2002年に沖縄市議会議員に初当選してから、2003年ぐらいから民主党の方々と接触するようになりまして、2004年に次の国政選挙にぜひ挑戦してくれということで、内部内定をもらったんですよ。[どちらかでしょう?] ― 当時の民主党から。そうすると、2005年に小泉さんが郵政解散を仕掛けて、なんの準備も出来ないうちに国政選挙に臨むことになり大惨敗。[この時は自民党員じゃないと人間じゃないみたいな雰囲気があったから、いくら沖縄の代弁者といってもきついものがあったでしょうね] ― しかも選挙区が沖縄市から14の市町村に広がったものですから、その選挙区では僕は無名なんですよ、政治の世界では。[じゃあ、一からということですね] ― そして落選をして4年間、浪人をしまして49歳の時に再挑戦して初当選します。[初めて国会議員のバッチを付けたということですね] ― その後2年経って、今度は二期目なんですが2012年、野田佳彦総理で、僕は民主党の自爆解散だと思っていますが。二期目の当選を果たすんですが、薄氷の当選。[ギリギリ受かったということですか?] ― 比例で私の当確が出たのが、午前5時46分かな。私が比例で最後の当選者。九州比例で一番最後まで争っていて、私の次の方との票差は122票でした。国政選挙で122票差で辛うじて勝ったという。[地方議会だったら、10票20票差ですね] ― この二期目に当選をしてから、これは引き締めなきゃだめだと、もう一度初心に戻るべきだということで一生懸命頑張って、三期目を当選しました。去年、孫が生まれまして、おじいちゃんデビュー、好々爺デビュー。[おじいちゃんですか!何歳でおじいちゃんになったんですか?] ― 57歳、今年58歳です。沖縄はこの年齢だと、孫が10人もいる同級生もいますから。子供が多いですね、沖縄は。(笑)

 

●最近の政治トピックス

 

[沖縄ということですので、永田町では与党野党に分かれているんですが、沖縄だけは特殊な地域でもありますので、政策的にも与党野党で割れない問題もたくさんありますよね] ― そうですね、与野党で一致して本来は取り組むべき問題もたくさんありまして。一般的に考えると貧困の問題や格差の問題、それから子供たちを取り巻く家庭環境の問題。これはもう与野党あげて取り組むべきですし、沖縄は民主党政権もそうでしたし、その後の安部政権になってからも、日本の観光やアジア戦略のフロントランナー、玄関口にするんだということで、それはアジアに向けてゲートウエイがずっと続いてますよね。それは沖縄の地理的優位性を生かす上では有益だと思います。[まずはトランプ政権、デニーさんの半分の血がアメリカと言うことで、トランプ政権が誕生したということはどうですか?] ― アメリカでトランプ政権が誕生したのは、既得権益層、富裕層、これまでの政治の流れを持っている人たちでは自分たちの生活はもう良くならないんだという、白人の貧困に陥っている方々がそうではない人を選ぼうということで、トランプさんに多くの票が行ったと。個人票でいうとヒラリーさんの方が多かったんですけれども、アメリカは選挙制度が日本と違いますので。そういう意味で大勢を占めたのがトランプさんだったということですけど。でもトランプさんはある意味で言うと、今までの政治経験もなければ、どうやって政治判断をするんだろうか、過去の既得権営層に担がれてないんですね。自分が倒産をし、再起をし、倒産をし、再起をして今の地位を築いた来た方ですから、すべて自分で相手と取引をして決めて行く。ディールポリティクス、取引政治。政治は取引なんですけど、彼の場合はTPPのようなマルチの関係はめんどくさい、一対一でやるんだ。そういう方向性でこれから出て来ると思いますので、かなり厳しいことを丁々発止、各国に対してやるんじゃないかと思っています。[コンセンサス、同意を取るのが面倒なタイプですね] ― それを周りの人に任せて、本人は最終的には俺が決める。会社の社長みたいな、CEOみたいな感じですよね。[アメリカって憧れの国でもありましたし、アメリカンドリームという言葉もありましたけど、10年、20年疲弊してたじゃないですか。アメリカに習えというのはモラルのことだったり。ある意味大人しいというか、アメリカがつまらなくなってきたのかなという時代だったんですけど、トランプさんでアメリカってそう言われてみればそういう所だったなと改めて思ったんですけれどね] ― 多様な意見があるだろうと思うんですが、アメリカのグローバリズムの限界だと思いますね。外に外に向かって出て行って、結局、戦争をして軍事産業がそれを後ろ支えをして。世界の警察官だったアメリカがやがて疲弊し、国民のあまたの命をどんどん失っていく。そういうことに国民が疲れていた。加えてクローバリゼーションということは外に打って出るということで、内政に関してはどんどん疲弊させていく。それにアメリカ国民が嫌気がさした、いい加減、俺たちのことも見てくれよと。[だからこそ、アメリカファーストという言葉が響いてしまった] ― そうですね。[アメリカの景気が良くなったり、アメリカがまたリーダーになったら、今もリーダーではあると思うんですけど、日本って変わったりするんですか?]― そこは日本もあまりグローバリゼーションの影を追う必要はあまりないと思いますね。人件費が高騰したり、資材が高騰して外に打って出ざる得なかった企業の状況はもう、かつてのような状況ではないと思います。今はアジアの国々の人が日本でも働いているし、日本の企業も海外に出ていって働いているという関係はそのままでいいと思うんですけどが、もう少し日本の国内の内実、国内の需要を高めていくための政策に、私はトランプさんが言うようにジャパンファーストでもいいと思うんですよ。私たち日本人の暮らしをもう一度立て直すという政策を出していってもいいと思いますし。民主党政権の時に実は、子供手当にしろ、高校授業料無償化にしろ、なかなかデフレから脱却していかない今、どうやって可処分所得を増やす?その着眼点から、子供たちは社会全体で育てるという方向性でしっかりしていこうじゃないか、そこに財源をあてて行こうじゃないか、安心して子供が産めるような社会を作るべきだよね。つまり少子化に歯止めをかけるためのプランを立てていこうという方向だったんです。それは僕は間違ってないと思うんですよ。ただ、与野党のいろんな駆け引きの中で2010年7月の参議員選挙で、当時の菅直人総理大臣が唐突にTPPや消費税10パーセントを打ち出した。TPPを打ち出したのは10月のAPECだったと思うんですけど、7月の参議院選挙の一ヵ月前に消費税10パーセントを打ち出してしまった為に、そりゃたまらないよ、ということで参議院が負けてねじれ現象になってしまって。[あれは悪意があったと思わざるえない、菅さんの失言でしたね] ― 失態というかね、財務省と少し仲良くなるとそういう方向性の考えに陥りがちですね。[それで言ってしまうと。自民党と同じ案でいいんだと] ― 社会保障のためには財源が足りない、団塊の世代が65歳以上になった時に金が足りないだと言われたら、ほほうと思ってしまうかもしれませんね。[怖いですね、役人と言うのは。日本のトップですからね]― 政治家や大臣は変わっても、自分たちがやる仕事は変わらないと役所の皆さんは思っていますから、それぞれが自分たちの考えていることを実現する方向性でいいんだということを、実現するのは彼らの役人としての仕事ですから。それは一理あると思うんですよ。ただ、本当にそうなのか、政治は何を決めるのかと言った時には、官僚主導じゃなくて国民が求めているものは何だろうと、国民の声を聞いてだから僕はこういう決断をするんだと、その決断に挙党一致で、政党も内閣も頑張っていく。そのためのマニュフェストであるべきなんですね。ところが民主党政権の時にはいろいろな意見の中で非常に最初から屋台骨がぐらついていたということがあったんじゃないかなと思います。[デニーさん、基地問題なんですけど、デニーさんはどんな考えなんですか?] ― 基地問題は沖縄の問題ではないんですよ。日本とアメリカの安全保障の同盟関係なんです。ただ、戦争の時にアメリカ軍がやってきて、多くの面積を米軍が土地と訓練する場所を奪ってしまった訳ですね。そこに居座ってしまった訳ですよ。戦後27年経った、1972年に沖縄がアメリカが納めていた施政権が日本に返還されるとう時に、沖縄県民はこれで米軍基地も全部無くなるんだと、本土からみんな撤退したようにみんな無くなるんだと思ったんですけれども、結果的に基地の約70パーセント以上はそのまま残ってしまったんですね。[日本円になった時、基地はもう無くなるんだとみなさん思っていたんですね] ― 社会には混乱もありましたよ。基地に働いている人がみんな首になってしまう。じゃあ、どうやって働くんだという風なこととか。今、米軍基地を還してしまったら、また元の芋と裸足にもどるぞとか。(笑)まあ、社会的に混乱していた時期だと思います。戦後70年経った今、未だに米軍基地が沖縄にあり続けるどころか、新たに最新鋭の基地を沖縄に作るということは、日本は独立国家として、もう少し国民のみなさんも考えるべきだと思うんです。[トランプさんが大統領になった時は日本から基地は撤退すると言う話もありましたよね] ― はい、今トランプ政権を支えている国防だとか外務の部門はほとんど軍人さん、元軍人さんが占めていますから、そういう意味ではその人たちの意見はトランプ政権の中ではかなりのウエイトを占めるのではないかと思いますね。[じゃあ、トランプさんはまた考えを変えるということですか?] ― トランプさんは言っていることは変わって当然だと言う前提でしゃべってると思います。それは取引の前のブラフはいろいろ商売上、かけてきますから。最初からニコニコして握手をして、それで取引成立というのは商売の中ではまずありませんから。お互いの出方を見ながらですので、言葉をいちいち、私たちが一喜一憂するよりも、その言葉の真意を探ると言う冷静な面が、基地問題でも安全保障の面でも、それが今、求められているんだと思いますよ。[デニーさんは基地がなかったら生れてなった訳ですから、そのデニーさんは基地はどうしたらいいと思っていますか?] ― 沖縄からすべての基地を撤退させた方が沖縄の多くのみなさんはハッピーになると思いますけど、ただ現実的な問題を考えると。今何が問題かということを沖縄県民がそういう声を上げているのかと言うことを、政府をはじめ、特に閣僚の方々にしっかり耳を向けて欲しいと思うんですよ。沖縄の声が政府に届いてない、政府は沖縄県民を同じ日本国民として見ていない、構造的な差別があるのではないかという不信感を取り除くためには、では沖縄の県民の皆さんは何をどう求めていらっしゃるですか?と耳を傾けるべきです。僕はすべての米軍基地を撤去した方がいいという立場には立ちません。ある一定、必要であれば沖縄も、例えば事件、事故の被害を少なくするために、物理的に米軍の兵士の数も面積も、例えば40パーセントぐらいに減らすとか、そういう協議が出来るはずなのに全く協議に応じてくれないんですよ。それが辺野古の問題も普天間の問題も暗礁に乗り上げている原因です。[誰が応じてくれないんですか?] ― 政府です。安倍政権です。[安倍政権は沖縄に関してはタジタジというのはありますよね] ― 鳩山政権が県民のみなさんが望むんだったら、最低でも普天間を県外に移そうというあの気持ちは突飛に出てきたものではなくて、元々鳩山総理は駐留なき安全保障、普段は基地として置いてあるけれども、有事の時には使うけれども、普段はいない。巡回してパトロールして、その周辺を見てくれと。そういう使い方でいいんじゃないかということをおっしゃっていたんです。ですから、沖縄県民は駐留なき安保という考え方に近いんだなと感じてそうおっしゃっていたと思うんですね。[それが鳩山政権の命取りになってしまったということですよね]― ですから先ほども言ったように、挙党一致で政権が進まなかった一番大きな民主党政権の失敗だったと思いますね。[歴史的政策案というか、発言になってしまいましたよね、それはね] ― 本気で協議をしようと思えばアメリカは引き受けるんですよ。なぜなら、住民に嫌われる所に自分たちは基地を置きたくないとはっきり言ってますし。私はハワイのカネオヘ・ベイという海兵隊の基地に行った時に、もし海兵隊が沖縄からハワイに移ることになった場合、どう思われますか?と言った時に、私たちは軍人ですので政治が決めたことに私たちは従いますと、はっきりおっしゃたんです。ということは政治が決めていく、その肝心な部分で決めない政治の方が自分たちにとって都合がいいと思っている政治家の方々が大層占めていたら、機能しませんよね。それでは良くないなと思いますね。[万が一なんですけど、これは極論かもしれないんですけど、観光立国として生きていくということなんですかね。この質問じゃ失礼かもしれないんですけど] ― 米軍が全部撤退しても、日本の領土領海を守るのは自衛隊ですから。ですから、あるべき独立国家の姿に進んでいくという意味では、私は画期的なことになると思います。本来ならもっと早い時間で、戦後早い時点でそうなるべきだったんですが。1947年に日本に駐留していた多くの陸軍がアメリカに戻って解散したんです。ところが1950年に朝鮮戦争が勃発したがために、また再編をして日本にやってきた。ところが日本に1950年にやってきた米軍はいろんな基地を広げるための闘争をするんですけど、国民の反対に合うんですよ。基地を作ることが出来なくなって仕方なく、その海兵隊はどこに来たかというと1956年に沖縄にやってきたんです。なぜなら当時、沖縄は日本じゃなかったから。そして銃剣とブルドーザーで土地を奪っていった訳です。戦争で奪われた以上に、もう一回、また再び土地を奪われたんですね。[その建設風景は見ていたんですか?] ― 僕はまだ、生れていません。その時に米軍がやって来て何が行われたかというと、1958年まで戦後、沖縄ではB円軍票という沖縄だけの通貨が使われていました。そのB円が1958年にドルに代わるんです。沖縄はまさにドル経済の中で基地が建設されていきながら、ドルと基地建設で潤っていくわけですよね。その時は1ドル360円。凄いですね、世界の基軸通貨ですから。あの時は1ドル360円で基軸通貨でドルの力が強かった。沖縄でもドルを持っている人が金持ちだったんです。ところが1972年に返還になった時にいくらになったかというと、返還額は1ドル305円だったんです。それが今や1ドル112円です。ですから、変動相場制になった以上、どんなに基地を建設しても、基地が建設されれば儲かるという昔の沖縄の栄光の影や姿はもうないんです。出来た基地はそこから実利的な利益よりも、実際には事件、事故などの被害が発生する。それがまたそこに居座り続けるだけです。だからね、お金の世界から考えても、基地がない方が沖縄の経済も良くなってきているんです。1945年当時は50パーセント。県民所得の50パーセントが基地経済でした。1972年で15パーセントになったんですが、今やもう、この基地関連収入は沖縄県全体のGTPからすると5パーセントです。もっとも伸びている関連収入は観光です。昨年の沖縄県の観光関連収入は6千億あります。基地関連収入は2千億ですから。ところが、2001年同時多発テロが起こった時に沖縄で何が起こったかというと、風評被害。観光が全部、キャンセルになりました。沖縄がテロにあうからと。だから、平和でないと観光が成り立たないんですよ。沖縄県民はそれを嫌と言うほど経済で味わったので、出来るだけ観光立県、沖縄。観光を中心にアジアのゲートウエイで日本が繫栄していくためには、出来るだけ安全な体制を取った方がいい。そのためには事件事故が毎日起こるような不安を与えている、誰の上でも飛んでいるオスプレイの墜落の危険性を心配するよりも、出来るだけ基地の負担や被害がない、沖縄で観光立県を目指した方がいいというのが多くの県民の気持ちだと思いますね。[重いですね、いろいろ考えさせられますね。本土とは全く違いますよね]沖縄振興費はゼロでいいねと、コメントが来てるんですけど、沖縄だけが振興予算をボンと取っているみたいですけど、沖縄は予算の仕組みとして内閣府に一括計上するんです。文科省の予算も総務省の予算も内閣府に計上して、内閣府がそれぞれ予算を付けて沖縄に下ろすんです。だすから、沖縄だけが他府県のように必要な経費を貰ってその上に3千億円貰っている訳ではないんです。それがちょっと勘違いしているところですから。ただ、沖縄には内閣府担当部局があり、沖縄には国の出先機関として沖縄総合事務局との二重の構造になってるんですよ。ですから沖縄県が国交省に行って直接交渉するとか、総務省に行って予算を取るとかはないんです。あくまでも内閣府沖縄部局に対して要請するというだけですから。だから、そういう仕組みも沖縄はちょっと違うということも是非、知って頂きたいと思います。

 

●今だから言えるあの日のあの出来事

 

さっきの幸せ度数年表をもう一度出して頂けますか。(幸せ度数年表グラフの線をペンで指して)自分にとって転身するきっかけになったのが、独立してから沖縄市議会議員に当選した2002年、最も自分が政治ってこうなんだと思ったのが、2002年の時で。実は2002年の4月に私の地元の沖縄市長選挙があるということで、何人かの方に声をかけたけどみんな首を縦に降らなくて、2001年の12月にデニーさん市長選挙に出ないかという話になったんですね。僕はそれまで政治のことを全然知らなかったんですけど、たまたま40歳になる前、30歳の後半からいろんな勉強会に参加してある程度、議員の方とか友達がいたんですよ。デニーさんも候補者足りうるじゃないかという話があったんですね。僕は全然、選挙のことも政治のこともわからなかったので、いろんな方に相談をしたんでけれど、家族は大反対。「あんた何考えているの」と大反対。親戚の方も「タレントのままでいいんじゃないの」と大反対。家族が反対しているからいいのかなあと思いつつも、その時に僕がお世話になっていた放送局、ラジオの番組をやっていた放送局の方に相談したんです。[どこの放送局ですか?] ― 琉球放送です。実はこういう話がありますと。4月20日ごろだったと思いますけど。「そうなの、デニー君そうするの?」僕は家族も反対していますし、一応こういう話がありますとうことでご相談ですということで。「もし決まったらそうするの?」わからないですけど、準備するんだったら、今月いっぱいで辞めなきゃならないですけど、それは考えてないんですけどねと相談したら、それを新聞社の方が嗅ぎ付けて、翌日朝刊に「玉城デニー、沖縄市長選挙出馬へ」と出たんです。出馬か?だったらまだ良かったんですけれど、出馬へと。(笑)[そうするとレギュラー番組も降りなくちゃいけないですよね] ― その日のうちに番組を降りました。[降ろされちゃうんですよね]― 僕にとっては降ってわいたような天災だけど、これも身から出た錆だと思って。その時に一番、落ち込みました。2002年のゴールデンウィーク、僕は涙涙で生活していました。こんなもんなのか!こんなもんなのか!と。母親には「あんたは馬鹿だね、人の口車に乗って馬鹿だね」と言われて、こんなにみじめな世界はないなと思ったんですけれど。でも、自分が決めたことでもないにも関わらず、人の言葉に翻弄されなきゃいけないんだと悔しくて。渦の底にいた自分が顔を上げて、渦の底から泳いで、泳いで水面の上に上がった時には青空だったんです。このような気持ちでした。2002年の5月、そこから一念発起して、ここから先は自分で決めたい、自分で決めるんだったら、政治の世界に進んだ方がいいだろう、ここまで来たらやるしかないと。[ラジオのレギュラーはどんな番組だったんですか?] ― 月曜日から金曜日まで、朝8時半から11時までの帯番組で、その前は9年間、月曜日から金曜日まで、お昼12時から3時までのレギュラーをやっていました。[リスナーの方もショックでしたよね、どうしたんだ!?という感じですよね] ― 何も言わずに終わって下さいと言われたんです。なので、何も言えなかったんです。ですから、「申し訳ありませんが、番組は今日で終了させて頂きます。番組は続きますが、玉城デニーの担当は今日で終わらせて頂きます。みなさん、ありがとうございました。」と言って、デニーがある日突然いなくなった、デニーは戦場に行ったみたいな感じですけれども。(笑) [当時はSNSが普及していなかったから、情報が錯綜したでしょうね] ― 今でも情報が錯綜しますよ、玉城ティナさんが僕の娘だと、真っ赤な間違いですから。僕としては光栄ですけど。(笑) ここで2002年5月に落ち込んで、後援会事務所を立ち上げたのが7月、選挙が9月ですから。選挙を知っている人たちは地盤、看板、鞄もないと。地元で活動もしていないと。土曜日、日曜日のイベントがある時は披露宴の司会とか、イベントの司会で精一杯だったんですね。そういうことで、けちょんけちょんにけなされたんですけれど、自分なりにいいよと。選挙戦、みんなで楽しくやろうということで、同級生が集まってきて盛り上げてくれて、若いみなさんもボランティアに来てくれて。それで開票を待ったら、投票箱が開いて8時で投票を締め切り、9時半にもう当確だから万歳しなさいと。意味がわからないんですよ。何でと、意味がわからないけど万歳!万歳とやったら、開票場の体育館で双眼鏡で見ていた人の情報で。2千票を超えたら当選だと言われていて、束ねた束が一番早く2千票に届いている、間違いない。30名ですから、39名立候補して30位以内に入ればいいのでもう万歳をしようということで。[何位当選だったんですか?] ― 1位当選です。[当然ですよね、パーソナリティーでからね。選挙的には素人ですけどね、そこがいいんですよね] ― 本当にビキナーズラックというか、何にもわからない状況から政治や選挙について一から、ずっと勉強しています。(笑) [いきなり新聞に出馬!とを書かれて辞めてしまう、何もリスナーにエクスキューズが無くて別のパーソナリティーに代わってしまうという。違う国の話みたいですね。(笑)] ― そういう事が起こり得るのが政治なんだなあと思います。

 

次回のゲストの山本太郎太郎議員も高校中退かな、私も大学に行っていないですし、いろんな出自の方々が政治の世界にはいるべきだと思いますね。これは国会だけではなく市町村議会でも。世襲でもいいんですよ、世襲でもいいんですけど、なるべくいろんな体験をしていらっしゃる方が、そのルーツを持って議論する場面に来ると、自分に責任を持たなきゃという意味で、もう毎日勉強ですよ。ひとつでも政策を実現させる、少しでも国民のみなさんの生活の支えになる、企業の経営の支えになる、もしくは外国と仲良くなる。いろんなことをやるためには、自分のルーツも常にしっかりと踏まえつつ。僕の好きな政治家が言った言葉なんですけど、吉本政矩さん、沖縄県の元副知事です。「過去に学び、今を読み、将来を見通す目を持つべきだ」と。常に過去に学ぶ、過去にどういうことがあったのか、今どういう情況になっているのか、将来どうなっていくんだろうか。自分の立場だけステップアップすることを考えるのではなく、なぜ自分がこの役割を与えられているかということを、時代背景と今の状況とこれからの将来を見通していく。それをいろいろな人たちと語り合い、いろんな資料や本を読んだりして、相応に学び、人に学ぶという姿勢が大事だよと教えて頂きました。[みなさん、過去は反省することばかりですよね(笑)] ― いやー、僕の過去は反省することばかりですから。(笑) 30代のタレント時代ロックバンドをやって、ドカーンと楽しくやってましたもん。[楽器の担当はなんですか?]  ― ボーカルです。マイクパフォーマンスをやっていました、一生懸命に。時々自分の頭にガンと当てたりして。(笑) [格好いいから、華があるから!] ― 見た目で英語がしゃべれるだろうと言うことで、高校生の時におまえ、ボーカル!と言われたんです。[何を歌っていたんですか?] ― ハードロックです。70年代のハードロックですね。ディープ・パープルとか、レッド・ツエッペリンとか。ブラック・サバスとか、その辺です。今、車の中に入っているCDはハードロックですし。[永田町で少数派ですから(笑)] ― 時々、国会の廊下を歩きながらシャウトすると、みんなびっくりして。(笑) 嫌なこともいっぱいありますからね。

 

Q1;パーソナリティーの時の発言と政治家の時の発言と、どっちの方が世の中に浸透すると思われますか。

 

玉城デニー議員;責任でいうと、公共の電波を使った発言ですからパーソナリティーもそうですけど、国会議員も当然、言葉には責任を持つということは必要だと思います。僕はパーソナリティーの時にとっても勉強になったのは、言われて気持ちの落ち込むような言葉とか、いわゆる差別用語とかは使わない方がいいということは先輩のみなさんにしっかり教えられました。それが僕には身になったなあと思います。ラジオでしゃべっている時に、ベットの上で聞いてらっしゃる方も、畑をやりながら聞いてらっしゃる方も、トラックで運転していらっしゃる方も、事務職の方も、いろんな人があの当時はファクシミリでリクエストしてくれたり、電話で直接してくれたりしたんですね。今みたいにSNSの時代ではなかったんですよ。生活が今よりもはっきり見える媒体、ツールでこちらにアクセスをしてきてくれたんですね。いろんな人たちがラジオを聴いているというのがあったので、この人たちが気を悪くするようなことを言っちゃいけないと。病院で寝てらっしゃる方がいるのに、そういう発言をしてしまうこととか。本当に炎天下で農作業していらっしゃる方がいるのに、軽んじるような言葉とか、そんなこと言っちゃいけないので、頭の中で本当に考えながら喋らないといけないという責任がありました。ですから政治家はそういう意味で言うと、SNSの世界の中でちょっとした言葉があげつらわれたりとか、足を引っ張ったりとかありますけど。だからこそ、僕らのあの時代より今は非常に厳しい時代だと思います。今でも僕、ずっと考えながらしゃべっていますけど、差別用語とか使っちゃいけない言葉と言っているのは、単語でそれを言ってしまうとそこから足の引っ張り合いが始まる。そこはやっぱり考えながら発しなきゃいけない。自分を自重する気持ちと言うのはパーソナリティーの時も国会議員になった今も、それは変わらないと思います。国会議員とパーソナリティーとどこが違うかというと、国民の税金で私たちは仕事と役割を与えられていますので、国民に奉仕していく、究極のボランティアというか、本当にそうだと思っています。24時間、365日、自分の言葉や行動や考えはそこに反映されないといけないという、国民に対する奉仕というのがありますから、言葉遣いも、そういう言葉遣いで言わないと歪んで伝わってしまうんじゃないかなという風に思いますね。

 

昨日も国会前の集会でしゃべりましたけど、日本語って素敵な言葉がたくさんあるんですよ。さらさらと衣擦れの音とか、しんしんと雪が降るとか。これって英語などの外国語表現にないんですね。だからこういう言葉を持っているから、こういう言葉に魂が籠る。言霊が籠るというのか。日本人の言葉に対する重みなんですよ。だから、ネットの世界だから、見えないから使っちゃえというのは、それはそれでそういう時代なのかもしれないんですけれども、今の時代だからこそ、言葉遣い、年上の方への言葉遣い、友達への言葉遣い、部下への言葉遣いというのを魂が籠っていると言う、日本の

国民の良しとする所はね、僕は大切にして欲しいと思います。僕はハーフだけど、根はうちなんちゅだし、日本人ですから。そのアイデンティティーはね大事にするべきだと思いますね。