笠井 亮
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第191回
2016年10月12日 放送

日本共産党 笠井 亮 衆議院議員

現在4期目ですが、8回の出馬経験があります。

原発ゼロの社会、豊洲問題などを語ってくれました。

学生時代は、学生運動に積極的に参加。

当時ご両親は大変心配されていましたが、「世のため・人のため」という考えが共通していることから、

徐々に共産党への理解が深まったと言います。

2014年の総選挙中には、くも膜下出血で倒れ、11時間の手術を終え見事復活。

大病をしたとは思えない、弁舌のさわやかさ、身のこなし、そして情熱を感じました。

 

(動画より文字起こし)

共産党 衆議院(東京ブロック) 4期目 (2016年10月12日収録時点)

[凄いですねー、バリバリの共産党の方が来たという感じしてならないんですけど] ― 私は引っ込み思案で人前に出るのは苦手なタイプでね。[みなさん、こらからいろいろ経歴を聞いて下されば、それは違うということがわかりますから。(笑)]― [今日は笠井さんの応援団の方が来て下さいました。(笠井議員の似顔絵がプリントされた、団扇と旗を佐野が持つ)共産党のドゥーイットユアセルフの力は凄いなと思いまして。手作りですからね。先週の田村智子さんの時は参議院選で被った帽子をここに飾って下さって。それも紙で出来たサンバイザーなんですよ。こちらは編み棒で作った旗で]― 似てるでしょう?似顔絵を作って頂いて。[この団扇、ちゃんとリサイクなんですよ。(笑)(笠井議員の似顔絵の団扇の裏は「祭」の文字が)]

●幸せ度数年表

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[1952年、どちらでお生まれですか?]― 大阪です。吹田でね、千里山、万博をやったところです。東京に4歳の時に来ました。移る直前にね、母親に阪急電車で連れられて宝塚でカルメンを観ました。4歳ですけど覚えているんです。行きしなにね、母親とラーメン食べましてね。なんか覚えているんです。[カルメンというのが今の共産党の活動にピッタリですね。演目が違ったら違う人生だったかもしれないですね。カルメンというのは先生の人生を占っていたような気がしますね] ― 結構それが印象に残っていて。父が転勤族で。[お父さんは何をされていたんですか?] ― 紡績会社で一応、大企業だったんですね。大阪と東京の転勤が多かったんです。[昭和は糸で日本は頑張りましたからね]― いい時代から下り坂になった、そういう時代ですけどね。[そして東京に移って下宿生活をするんですね]― 父親が大阪にまた転勤ということになって、学校は僕は東京で続けるというのがあったもんで。結局ね、中学校の1年生の終わり頃から高校3年まで下宿していまして、大学生の人たちと一緒の下宿で、9人位いたのかな。ひとり、中学高校生みたいな感じで。[どういう寮なんですか?]― 寮と言うか普通の下宿ですね。今だとあまりないのかな。アパートみたいになっていて、その時はまかないで朝ご飯と夕ご飯が付いていて。大学生のお兄ちゃん、お姉ちゃんと一緒で。本当にお世話になったんですけど。ちょっとね、幸せ度が下がったかなというのは、その頃の写真、中学高校生の写真が何かね、暗いとみんなに言われるんですよ。[中学高校の時に下宿したんですか?それは凄い自立心ですね]― 自立心があったのか、母親はすごく心配したんでしょね、毎日手紙が来まして。往復はがきで、必ず返事を書くようにとなっている訳ですよ。僕が出さなきゃいけないんだけど、なかなか書けなくてみたいな。たまに父親が出張で出てきて、ご飯を食べて狭い部屋ですけど一緒に泊まってみたいな。[当時は価値観が下宿人の先輩達みたいになっちゃいますよね]― お兄さん、お姉さんたちを見ながら、まぶしいなあと思いながらの中学高校生でしたね。[そして日本共産党に入ったというのは何歳なんですか?]― 19歳ですね。[それは大学に受かられてからですか?]― 浪人中です。落っこちました。これは絶対に受かるぞと思っていたのに、落ちたのは良かったかなあと思っているんですが、ちょっと落ち込んでますが。その時に予備校に行っていたんです。その頃が1971.2年の頃で、沖縄返還の運動が盛り上がって。[ドルを使っていたところが、いきなり円になったんですよね。沖縄はパスポートを持って行っていたんですよね。信じられないですよね]― 赤嶺政賢議員は衆議院で一緒にやってますけど、その頃のいろいろな体験を聞きますけどね。当時私もそんなことで、やっぱりこの問題は政治がきちんとやらなきゃだめだよねという思いで。予備校に通いながら、友達に誘われて毎日デモに参加しました。[みなさんこれですよ!この歴史ですよ!一般的に言って申し訳ないのですが、学生運動]― そうですね、その一番後ろにくっついてみたいな感じで。そんな感じでやってまして。[なかなか生で見られないですよね、今はね。隠している方も企業の方で多いですよね]― 結構やっている方が多くって、その頃。かつてはやってたよいみたいな方いらっしゃいますけど。母親には予備校が終わったら図書館で勉強しているとか言って。[嘘をついて?]― (笠井議員、はにかんだ笑顔でうなづく)まずかったかな、ちょっと。(笑)それがちゃんとバレるんです。[どうしてバレるんですか?]― 靴が汚れてるね、どうしたの?と言われると、やっぱりちゃんと白状しました。[さすがお母さんですね、わかるんですね]― その時に共産党に出会ったんですけれど。何でかというと、出発は両親だと思っているんです。両親ともに共産党と無縁なんです。大企業で働いたサラリーマンでしたから。父の方が真面目に人に尽くす人間になれよと言ってくれて。母は広島で原爆の被害を受けたものですから、二度と被害を繰り返してはいけないと教えてくれて、ずっとそれで育ってきた。8月6日の8時15分、1分目を瞑って、あの時はねという話をしながら育ってきて。あー、大事だなと思って共産党に出会ったら、まさにピッタシだった。親の言った通り、人に尽くす為に頑張る、もうちょっと自分のことを考えてもいいかなと思う位、人のために頑張る。それから平和のため、核兵器を無くすように頑張る。これだなと思って、自然の結論として入った。[みなさん、東京大学ですからね。何学部なんですか?]― 経済に一応いましたね。卒業しましたけど。[卒業されてから、入試が中止になったりしたんですか?]― 中止の直後なんですよ。ちょうど学費値上げ反対の運動がありまして、1972年に大学に入ったんですけど、駒場がストライキをやってて。当時1万2千円の学費を3万6千円にするという。反対の運動がある中に入って、半年間授業がなかったですからね。という中で学生運動に関わって自治会やったりとか。[浅間山荘とかはまさにリアルタイムですね]― ちょうど浪人の時。ああいう暴力は絶対ダメだよね、と思いましたね。ちゃんと言論の力でお互い議論して、間違ってる、正しいと戦わせてそれできちっと世の中を変えようというのが大事かなと思って。経済学部を一応、卒業しまして、その後農学部に学士入学しまして。そっちは卒業しなかったんですけど。トラクターをやったり、牛の搾乳とか、お尻を洗うとか。でも、いい勉強になりました。[浅間山荘は私が子供の頃テレビで見て、大学生は怖いというイメージが。総括という言葉を聞いただけで震え上がりましたよね。意味は分からないけど。大学生と言うのは議論好きで怖い人なんだという、ピアを持っていたら殺されちゃうんじゃないかという図式がありましたものね]― 大学の頃、ヘルメットをかぶって総括だなんだ、ゲバ棒を持ってやっている人、いたんですよ。あなた達は間違っている!としょっちゅうやってきて、暴力は許さないという大きなテーマになりましたね。[今思うと、何だったんでしょうね。その後、笠井議員は日本がバブル経済に踊らされている時とか、バブルがはじけた時、今、元気のない日本で。振り返ってあの時代と言うのは何だったでしょうか?]― そうですね、みんなが生き方を模索している、日本の経済自身が高度経済成長でずっと良くなりかけて、70年代に入って無理して伸びた分だけいろんな問題が出てきた。公害が出てくるとか、オイルショックとかありましたけど。そういう中でこのままで日本いいのかなと考えてて、自分の生き方にも重ねて合わせて、世の中を考えて、人生を考えて。そういう時代であったかな。君たちはどう生きるか、という本がみんなに読まれて人生を考える、そんな時期であったかなと思いますけどね。[大人は全部、悪に見えたんですかね] ― いやあ、そんなこともないけれども、立派な大人もいるなあと思いながら。どういう風に人生を選択したらいいのかなと思って考えましたけどね。[共産党の方と学生運動の方は別の種類だと言いたいですか?] ― 学生運動やる中にも共産党で頑張っている方もいるし、共産党員として学生運動をやってきたというのはありますから。[人が多ければいろんな考え方がありますからね、一概には言えない] ― と思いますけどね。[今の大学生とか本当に軟弱に感じるんじゃないですか?] ― いえ、そんなことないですよ。[ブラックバイト?何言っているんだという感じじゃないですか?] ― みんなやっぱりそういう中で、それに納得しないという、どうしたらいいかとみんな考えてらっしゃるというので。最近、安保法制、戦争法ということで野党と市民の共同で大きく広がりましたけど、その中でも若い方々が声を上げる。自分の言葉で自分の生き方と重ね合わせながらスピーチするという形で。あれは凄かったなと思って。[今はデモが非常に多い時期ですから、議員さんも過去を思い出してというのがあるんでしょうね] ― それからあの頃に学生だったり、研究者、学者だった先生方も今、学者の会でそういう若い方と合流しながら声を上げてということでね。すごいいいコラボレーションになっているかなと思っていますけれどね。[そして大学を卒業されてから、どちらかに就職されたんですか?] ― 就職というか、青年運動の方で民主青年同盟で働いていたんですけれども。その間にハンガリーに駐在するということで、3年間行きました。[駐在というのはどういう?] ― 世界各国の青年団体が集まっていて、それのセンターみたいな所で。そこで3年間、仕事して。[青年同盟からいらしたのですか?] ― はい、私の方は青年同盟から行きまして。ただその頃はね、もうなくなりましたけど、ソ連という国がありまして、社会主義を名乗って。私はその時に酷いなと思ったんだけど、ソ連のやることはすべて正しいと。アフガニスタンに侵略、これも正しい。それからソ連の核兵器は正しい、アメリカは間違っている。いや、違うよねと。そういう間違っている考えを、そこに33ぐらいの国が来ていたんですけど、青年の代表がいて。毎週、会議をやる。英語とフランス語とスペイン語で会議をやるんですけど、ソ連のやることが正しいと支持してくれみたいな、そういう決議を上げようというのがあって、私ひとりで正面からダメといったんですよ。[他のみなさんは賛成で?] ― 本心は違っても、力づくでやる人達に対していいのかなという気持ちがあって。[日本人だったら空気に流されるというのはわかるんですけど、諸外国のみなさんも、ソ連に物申せなかったということですね] ― そういうのがあって、それに対して世界の平和をどう作ったらいいか、真剣に議論する経験をしましたんで。その時は幸せ度高く感じましたね。[今と同じ、絶好調ですね。そして結婚されたんですね] ― ハンガリーに行って、その半年後に結婚ということになりまして。[どなたと?] ― はい、妻と。(笑) あ、すみません、意味が無いですよね。(笑) [一緒に行かれたのですか?] ― 私が先に行ったんですけど、後から来るということで。学生の頃に東京で、家の連れ合いの方は富山から来ていたんですけど。大学は違ったんですが、学生運動の中で交流があって。いろんな波がありましたけど、ようやくたどり着いてという状況です。それで結婚しました。(笑) [学生運動をやっていた女性というのは従順だとおもうんですよね] ― どうかな?(笑) ちょっと、家はイメージが違うかな?(笑) [旦那さんには厳しいかもしれませんが、議論できるというのが素晴らしいと思います] ― それはそうだと思いますね。[そして赤旗の記者になったということですね。党本部勤務されたということですね] ― はい、外信部という所で。最初は校閲部という所で記事を直したり。[一字一句見て、間違いがないか] ― 入り口としてはみんな、そこを通過するので。大事な仕事で、最終的に読者に触れる時に字に間違いがないか、表現が間違ってないかというのは、記事の中身ももちろんどうですが、日本語としてどうかというのは大事なことかなと思って、勉強になりました。それから外信部に行って、当時はネットとかない時代だったんで、テレックスとか。テレックスと言ってもきっと若い方はわからないでしょうね。外国にも赤旗は特派員がいるんですよ。今もいますけど、ロンドンとかパリとか、アメリカとか中東もいましたし、あちこちに特派員がいたんですが。早番、遅番と泊まりと三交代で記者をやってまして。外国から電話で入って来る記事をテープレコーダーで記録したやつを起こす仕事。写真を電送するのになかなか手間がかかって。やはり新聞は記事とともに写真が勝負ですから。その辺は大変、苦労もありましたけど。いろんな勉強をしたという。[当時、なにかスクープとかありましたか?] ― いろんな事、ありましたけど、私が記者になる前だったんですが、アフガニスタンにソ連が侵略したということを当時パリにいた緒方さんという特派員で、今は副委員長なんですけど。彼が実際、アフガニスタンにパキスタンの側から入って。そして自分の目で見て、これは間違いなくソ連による侵略であるということを確認して発信したというのがあって。そこが本当に我々としても党としてもですね、ソ連の間違いを言ったのは大きいですね。自分たちの目で確認することが大事なことかなあと思いますね。[そしてお父様が他界して、お母様が倒れてしまうということで] ― 92年、ちょっと落ち込みました。私の父はさっき申し上げたサラリーマンだったんですが。[大手紡績会社ですね] ― ええ、共産党に入って、親の言う通りになったよと言うつもりだったんですけど、ビックリしちゃいまして。何で縁のない共産党にあなたは私が教えた通りでなるんだということになったんですが、父ともいろいろ議論する中でもうこの頃には息子の幸せ、そして息子が一生懸命やっている共産党を知ろうということで赤旗も読んでくれて。そして引退したら後援会長をやってもいいよみたいなことを言ってくれて。最後に議論したのはね、党名だけは変えたらいいんじゃないかと。いいことを言っているね、共産党の名前だけは変えた方がいいんしゃないかと父が最後言ったんです。でもやはりこれはみんなで幸せを作っていくために付けた名前で、この名前に誇りを持っているんだと、お酒を飲みながらやりまして。一番最後に言ったのは、さんざんあんたと議論したけどもうこの名前は変えなくていい。みんなになぜこの名前を名乗っているか、赤旗を読んでもらってわかってもらうのが一番だよと言ったのが最後だったんですよ。だから嬉しくってね、そんな思いで。[市田忠義さんもね、お母様が赤だけにはなるなと。でもお亡くなりになる10年前から共産党員になってくれたということで。池内沙織さんもご実家で食堂をやられていて、自民党の支持者がいっぱいご飯を食べにくる中で、お父さんがようやく赤旗を貼ってくれたという。みなさん、いろんな家族の歴史と共にあるんですね] ― 共産党というと、両親が共産党だから共産党という人もいますし、そうでない全然違うところからなる方がいて、そこからまた家族の方々と話し合いを通じてまたわかって頂けると。[みなさん国会議員になってバッチを付けているというのもあるんですけど、最後は必ず和解していますね] ― 国会議員はそうでしょうけど、そうでない方もね、理解頂いてそうだよねというまでに時間かかる方もいらっしゃるけれど。家の連れ合いなんかは東京に出てきて学生でしょ、共産党に近づいたみたいな、ピンク色っぽくなってきたみたいな。[ピンク色って何ですか?] ― 赤じゃなくて少し近づいてきたみたいな。義理の父から「共産党にだけは近づくな」というハガキが来たという。[心配だったんでしょうね] ― そういう中で粘り強く話し合いをするということで、わかって貰えたかなみたいなのはありますね。[大変ですねー、いろいろね] ― でも、世の中そうやって変わって行くんじゃないんでしょうか。[そうですよね、自民党だって反対されていますからね] ― (笑) [そして、笠井議員の選挙出馬人生が始まるんですね] ― はい、92年が最初だったんですが。[総括しまして、選挙に何回出られて何勝何敗なんでしょうか?] ― 8回ですかね。[少なくとも8回は出ている] ― 最初の選挙で落選しまして。父が亡くなったのは投票日の直前だったんです。95年に参議院に当選しまして、1期6年やりまして、2001年に落選ということで。2004年がもう一回参議院で落選したんですが、後衆議院議員4期ということで。[現在4期目ということですね。自民党の方なんかに聞きますと、一回バッチを付けてから落選すると本当に辛い、お金も辛い、気持ちも辛いという風におっしゃるんですけど、共産党であってもそうなんですか?] ― 辛いと言う面もあるかもしれないんだけど、むしろ私の場合はその瞬間的にはそういう形になったと書かせてもらったんですけど、(幸せ度数年表の落ち込んだグラフを指さして)

でも直ぐに議員でないけれど、その期間にその地域の方々と話をする、いろいろな分野の方々と話をする、いろいろ勉強になりましたから。[笠井議員は今は東京ブロックで出ているんですよね] ― はい、そうです。参議院の頃は地域割りして頂いて東海地方とか、沖縄とか北陸信越とかあっちの方でもやりました。一番最初は拘束名簿で参議院選挙をやったものですから、全国、全部回りましたよ。47都道府県回って。そこも本当に勉強になったし、落選したらしたで、その分地域、地方で、いろんな形で話を伺ったりできるというのはすごく勉強になるなと思っているので。バッチを付けているだけが人生じゃありませんし、我々、そのために党に入っているというのではありませんから。みんな世の中を良くしたいというところで、たまたま役割分担ですから。そういう意味では頑張っていきたいと思います。[この倒るというのは、どうしたんですか?(幸せ度数年表を指して)] ―

ちょうど間もなく2年になりますが、2014年の総選挙の時に始まって三日目だったかな。北千住の駅で演説していたんですよ。がんっと、終わったところで来まして、自分でもヤバいなと。病院にすぐ連れていって貰って、くも膜下出血になって。[全然、大病をされたようには見えないですけど] ― 自分で気づいたのと、直ぐに病院へ行って手術したものですから。結構、時間がかかって、11時間ぐらい手術して。動脈瘤が出来ていたんですが、そこをチタンでグリッピングでやるんですけど、手術をして。場所もよかったし、早くて、先生も良かったんですけど。お陰様で戻ることが出来て。麻痺とかはなく、本当にラッキーでした。[気が付いたら当選という感じだったんですね。それは幸せですよね。(笑)] ― 手術して直後でしたからね。自分で投票しましたから、ベッドで。手術して何日目だったけど。お医者さんもビックリしちゃって。意識戻って三日目ぐらいで、赤旗を読みたいと言ったんですよ。「こんなに直後に新聞読みたいなんて人、見たことありません」と言われたんだけど。[心配でしょうがなかったし、いいニュースも聞きたかったし] ― 自分が候補者というのがありましたからね。お陰様で、共産党を伸ばして頂いて。[そういう大病をされたなんて見えないですね]

 

●最近の政治トピックス

 

[原発再稼働反対をライフワークとして] ― 私はこれを大きなテーマとして。3.11は日本国民の皆さん、あの時の体験というのが本当に大きかったということで、官邸前で声を上げられたということがあったと思うんですけど。これを持って来ましたけど、これはドイツ語ですね。(後ろに貼った旗を指して)原発ノー・サンキューということで、ドイツの原発反対の運動の方と交流した時に頂いたやつなんですけど。3.11の東日本大震災と東京電力に福島第一原発の大きな事故があって。むしろドイツの方が早く、原発を無くすという決断をメルケル首相の元で、みんなで知恵出して決めたということがありましたよね。ところが日本では再稼働ということで。今の安倍政権もあの事故が無かったかのように、福島の方々がまだ避難生活をしているのに、避難解除だと言ってもう戻らなきゃだめだと言って。[政治家もともかく、国民でさえも無かったような。今は小泉さんと全く同じ考えを共産党は持ってらっしゃる] ― 違う所もあるでしょうけど、原発止めた方がいいとメッセージを出されているのは大事なことかと思います。[どう思われますか?小泉さんが政府の基本方針として原発を日本でやっていくと演説していたのも聞いてらっしゃると思うんですけど。今は勇気を持って反対の方に回っていることなんですけど] ― 政治家の中でも保守、野党の方々もそうでしょうけど、あの体験を通じて考えを改めたということを言われる方いらっしゃるんで。私は立場の違いを超えて原発はもう無くしていこうと。もちろん、どういう風に無くすかというと、即時なくした方がいいよという考えを私たちは言ってますけど、だんだんにというのもあるでしょうけど。方向としては原発に依存するのはダメだよねと。原発はゼロにして、再生可能エネルギーがこんなにいろいろ可能性があるんだから、そっちで行こうよということをみんなで声を上げながら、一歩一歩やっていくと。再稼働しようとしてもなかなかいきませんよね。川内原発も九州電力が再稼働ということで、三反園さんが知事になって。九州電力に二度にわたって止めなさいと申し入れに行くと。私もその直後に別のことで、国会から超党派で行きましたから。[長いものに蒔かれちゃうんじゃないんですか] ― 今ちょうど、川内原発も定期検査で止まってますけど。県議会でもそうですし、薩摩川内市、原発がある所でも選挙を今やってますけどね。みんなが不安に思っている。賛否別にしてもこのまま動かしていいんだろうかと。熊本大地震もありました。非難が出来ないという問題もあるということで。そういう点では知事もそういう世論があって声上げて物言ってくれていると。だからその背景には我々も官邸前行動と言って、みなさんずっと長いこと反原発運動の方々がテントで声をあげてますけど、全国各地でもやっている。そういう声が日本がこれからどういうエネルギーの選択をするかというのを決めていくんでしょうし。今、新潟も県知事選挙ですが、原発柏崎刈羽を動かしちゃだめだというのが相当強い世論で大接戦になってますけど、国民のみなさんの声というのが決めていくんだと思います。[もどかしいですね。こんなにマイナス要因を言われるのにも関わらず、支持している方もいらっしゃるし。一方で子供たちの病気とかも発覚していますし。どうしたらいいんでしょうね] ― 原発推進と言っている人はそんなに多くないですよ。この間の参議院選挙でも福島でそうでしたが、野党の統一候補が勝利するということで。福島の思いは原発はもうこりごりという思いはありますからね。日本国民全体の思いにして今、頑張っていく時じゃないでしょうか。[もう一方国民に支持されている問題として、豊洲問題ですよね。首長と有権者がピッタリ合っている出来事ですよね。有害物質が検出されて] ― そうなんですよね。最初にですね、豊洲移転という話になったのは2001年、石原知事の時。あそこに移るということを決めたことが出発で、築地の市場関係者もそうですし、いろんな意見もありましたが、反対に相当強く出ました。都民のみなさんの中でも、いいんだろうかと。なぜならば、石原さんが決めたんだけど、決める直前に実は豊洲が旧東京ガスの跡地である所がベンゼンとかシアンとか大変なもので汚染されている所であると東京ガス自身が明らかにした訳ですよね。そこに敢えて行く事に決めちゃった知事ということで。そっからね、もう私たちは反対の声を上げたし、都議会でも反対と言って来ました。[それがなかなか主流の声にならなかったということですよね] ― 直接のきっかけはあれですよね、豊洲の方で食の安心安全は大事だよね、汚染の所に作っていいのかという声がある中で、そうは言っても東京都がちゃんと対策を取りますと。汚染物質が直接来ないように土を取り払って持ち土をしてやりますから大丈夫ですという風に説明をして、対策をやったという風にして国にも報告してた。国もそれを受けて中央卸売市場の整備の計画に豊洲と入れていた。だけど盛土が無かったというね、こういう事が明らかになったということで、共産党も赤旗でもやりましたし。小池知事も重大問題ということで。前提が違うじゃないか、だったらこのまま進めていいのかということで、まず移転が延期になってそして調査が始まったら、実はあそこに空間があったという話になってくるんでね、やっぱりこの問題は食の安全安心ですから。私も国会の予算委員会で取り上げたんですがね。農水大臣、安倍総理大臣も結局、東京都が噓をついて間違った報告をしてきた、それを前提として国もいいよと審議会にかけてやってきた訳で、もう一回戻すのが当たり前でしょう。審議会でも味の素の当時会長の方がね、ちゃんと基準に合っていなければ豊洲は外すことも条件にして豊洲の整備計画を認めていた訳ですよね。それが違った訳だからやり直しと。(農水省審議会の資料のパネルがアップになる)盛土をしますというのを審議会に出したやつですね。ところがこれ、なかった訳ですからもう一回やり直しということで考える必要があるかなと今、言っています。[共産党さんはどなたが知事になってもこの問題を出したと思うんですけど、小池さんがなったことで、都民、世論を動かしたということですよね] ― 都知事選挙自身はいろんな形で私たちも、野党統一候補ということでやりましたが、その中で都民のみなさんが東京都というのはどうも危ないよね、胡散臭いよね、伏魔殿だとね、という方がいました。やっていることが見えてこないという中で、都政を見えるかすると小池さんが言われて。そういう都民の願いがあるからこそ小池さんが言ったんでしょうけど。言ったからには都知事になったらやるよねということで、今こういう状況ですから。そういう部分では、知事がやろうとしていることについては、いい事をやるについては我々も一緒にやるし、提案する。間違ったことをやる時にはダメだよということで都議団も今、やってますが。[これは都民の利益、国民の利益につながることですからね。利益というか、まず損害を被らないようにするということですからね。共産党はどちらに持って行くことがベストだと思っていますか?] ― これはみんなで知恵を出して考える必要があって、築地自信を現在地そのままで再整備するという考え方がありました。そういうことも一つの考え方でしょうし。[老朽化が進んでますけど、そこを直してということですね] ― 直しながらやる、ということですね。こういうことを含めて、みんなで知恵出していくし。じゃあ、豊洲がもう出来ているじゃないか、建物が。私自身も思うんですけど、あそこであれだけ土壌が汚染している所に生鮮食料品が全国から集まる、首都圏全部に行くような所に、生鮮食料品を扱うような目的にして建物を使うべきでない。あそこをどういう形で使うかはね、また知恵を出し合ったらいいと思うんですけど。そこはみんなで考えて行ったらいいかなあと思います。[4年後の選挙、小池さんが出馬されたら、一緒にタグを組むしかないかもしれないですね。(笑)] ― これからどういうことをやられるかよく見ていく必要があるかなと思って。[でも、是々非々でいかれそうな感じですよね] ― スタートしたところですからね。[もうそろそろ選挙があるんじゃないんですか?] ― 国会で一方では解散風を吹かせながら、安倍さんが発信地になっているかわかりませんが、自民党の幹部が言われたりしますけどね。もちろん、そういうことになった時の構えはするし、野党の共闘でということで話し合いも今やってますが、同時にそういう風を吹かせながら何か腰が落ち着かない、大事なことが議論されない。それから一方で安保法制ということで、私も国会で取り上げましたけど、南スーダンの自衛隊、今度交換して青森の人たちが行く時に、駆けつけ警護とか宿営地の共同防護とか、武力を使うと。今までの憲法で出来ないという事を出来るようにする。そのためにはドンパチ武器の使用が出来るということで。私も質問したんですがね、至近距離の射撃訓練もやんなきゃだめだよというのを、南スーダンで危ない目にあった時に教訓として書いた文章があるんですよ。これは前に予算委員会でやったやつですが、自衛隊の資料なんですけど、(「実力行使に伴う救出の流れ」のパネルがアップになる)実力行使に伴う救出の流れということで六段階に分かれてありましてね、その中に「必要により敵艦視要員を狙撃・射殺して突入部隊の突入、鎮圧を容易化する」これが自衛隊の作戦の中にある訳で。こんなことまで考えているのかと。[具体的な話になってきているんですね] ― でね、自衛隊員の中にも倒れている人の絵がある訳ですよ。だから殺し殺されるということが特殊なことじゃなくて、今、安倍政権がやろうとしていること自体がそういうことになるんじゃないかと。ここはもう撤退せよと、新しい任務に就けるのはやめる、ということでしっかりと物を言っていこうとこの間、質問しました。力を合わせて、やっぱり憲法九条ですから。大事にしていきたいなあと思います。[解散に煽られないようにこの話をしっかりとしていきたいということですね] ― はい、やっていきたいですね。

 

●今だから言えるあの日のあの出来事

 

ここって、料理の鉄人の店があった所ですよね。日本料理の道場六三郎とフランス料理で堺さんというシェフ、もう一人、中華の周富徳さん。この辺と言うと加藤紘一さんという自民党の、亡くなりました。私も葬式に行かせて頂きました。もちろん、加藤さんは自民党で頑張ってこられた方で立場は違いますけれど。国会で衆議院の予算委員会にいた時に理事会に出ていて、当時は自民党、野党時代だったんですが。これも亡くなられた、自民党の町村信孝さんという衆議院議長をやられた方と、加藤紘一さんが自民党の理事だったんです。私も共産党からオブザーバー理事役ということで出ていまして。そういうことで毎日のように予算審議の時には議論もしながら、理事会でも私が発言すると加藤さんが私の方を向いて私の言うことを聞いてらっしゃって。それを受けて「今、笠井さんこれを言ったけど、こういう点が大事じゃないの」みたいな話をされたりとか。そんなこともあって、親近感を感じながら。一緒に食事をさせてもらったこともあったんです。保守の方なんだけども、筋を通しながらしかも、平和、戦争はダメだよねというのを凄く持ってらっしゃって。新聞「赤旗」にも登場下さったこともあって。それでお葬式の時に山崎拓さんが、YKKで小泉さん、山崎拓、加藤紘一。弔辞を読まれて、ジーンときたことがあったんですね。まさにこの辺の蕎麦屋さんで、加藤さんと生前、最後に食事したその時のことが忘れられないと山崎さんが話されて。山崎さんが加藤さんに「君は憲法九条の改正は」反対か」って聞いたら「反対だ」と加藤さんが言う。「一字一句ダメか」と山崎さんが聞いたら「ダメだと」九条が日本を守っているんだという風に加藤さんが言ったと、その時に非常に山崎さんが感じ入ったと言うんですよ。そういうことを思い起こしながら、そういうことが蘇ってきて。なんか共通するものがあるなと。[亡くなる前の言葉ですから、欲も得もないというか、総理総裁選も関係ないというところの言葉だったのかなという気はしますよね。加藤の乱までは総理総裁になるんだという意気込みがありますから、きっとその発言は出なかったでしょうね。欲も得も無くなって俯瞰的に自民党を見ている言葉だったかもしれないですね] ― ただ、加藤さんとしては信念として一貫したものがあったかなと感じて。私自信の受けとめですけど、なかなか保守の政治家で現役でやっている方の中では、もちろんこの方はという方はいらっしゃいますけど、数少なくなってきたのかなというのが、ちょっとね。共産党員ではあるんだけど、保守なりにやっぱり凄いなという人があったことからするとちょっと残念かなみたいな思いはしますけれど。はい、ただこれから大いに語り合っていきたいなあと思います。[私はここ二十年で一番好きな政局は加藤の乱です。野次馬として面白かったです] ― あの時、谷垣さんが一生懸命に止めたりしてね。(笑) 泣いたりして。[「あの大将と言った時はどうだったんですか?」と谷垣さんに聞いたら、「それは聞かないで下さい」と秘書さんに怒られたことがあったんですけど。(笑)] ― あれは印象が強烈ですよね。まあ、なかなかそういう人も自民党の中には。[みなさん、賢くなっているから、若手は絶対にやらないですね。すぐ自分の将来が思い浮かびますから。そこまで熱くなれる人はなかなか居なくなったのかなという感じはしますね] ― あと、小選挙区制の中で一人だけでしょ。そうすると、総裁がオッケー、ダメというのが凄く影響するんじゃないんですか。そういうのもあるんでしょうね。そこの制度も問題だと思いますね。

Q;先ほど、奥さんとのお話があったんですけど、何年位お付き合いをされて結婚されたのですか?

A;(笑) 付き合いの期間って断続していまして、最初が74年位ですかね。その時が第一付き合い期で。ちょっと熱くなっていましたから、私も。(笑) 連れ合いのいる富山に夏休みに行きまして、電話しましたら向こうの親父さんが出てきて。「今、高岡の町に出てるよ」と言ったんで、しばらく時間を潰そうなと思ったら商店街でバッタリ会いましてね。向こうはドキッとしてまして、「何しに来たの?!」みたいな、そこから始まりました。それぞれ事情があって、それぞれ付き合いがありまして。でも何と無く気になりながら、それでハンガリーに行くということがあって。「ハンガリーに来ない?」と言ったんですね。「遊びに行ってもいいわよ」と、ちょっとそらされまして。そんな話がありましたが。(笑) それで、グッと押しました。そして今に至ります。

[ニコ生コメントがたくさん来てますよ] ― (笠井議員、ニコ生コメントを見て)「落選経験が議員を育てるらしい」と来ていますが、私もそういう意味では人生順風満帆よりも、いろんな事がありながら自分自身もそれをまた糧にしながらやると。あと、幸せ度の問題、100パーセントはちょっと出来ないなと思ったのが、自分はいい思っても世の中みんな幸せになりたいなという思いで共産党をやってきたので。JCPマニュフェストとありますけれど、新しい共産党の綱領です。(共産党の新しい綱領が画面にアップになる)[みなさん、共産党の綱領が新しくなりました!] ― 我々も思い切ってやったんですけど、絵を入れたり写真を入れたりして。私自信が改めて読んでも、今の出来事にパッとはまってなるほどこれは確かにそうだよねと重なって来るようなことがいっぱいありますので。みんなが幸せなるというのはなかなか難しいかもしれないんですけど、理想を目指して常に努力することで言うと、自分の幸せを100パーセントとなかなか言えないかなという気はしますね。[優しいんですね、わかりました。どうも有難うございました。]