細野 豪志
ほそ
第118回
2014年05月14日 放送

民主党 細野 豪志 衆議院議員

政治家としての「華」にも恵まれ、謙虚な気持ちを常に意識できる人だと思いました。 民主党元幹事長の細野議員、3.11後の環境大臣なども歴任されましたが、今はすっぱりと一議員の立場です。 しかも政権交代により、政府の中心にいた状況から野に下った現在。。。も、また様々な反省を踏まえパワーアップした細野豪志議員となっています。 東日本大震災の時は官邸で様々な決断に直面した細野氏は政権が変わった今も「自分が役に立つのなら」という気持ちを常に持っています。 いつか??いつか??又民主党が政権を取れた時、日本のリーダーになっている人ですね。

(動画より文字おこし)

民主党 静岡5区 5期目(2014年5月14日収録時点)

[ようやく出て来て頂きまして…待ってました]―もう(出演者が)100人以上?すごいですね。[その前からやっているので400人以上…落選している人もいるし亡くなっている人もいるし、違う道に進まれた方もいるし。羽田雄一郎さんの紹介でないと絶対出てくれなかった]―そんな(笑)。有難うございます。[細野さんが来るとみんなに言ったら、十中八九女性が「イケメンの!?」って]―何を言ってるんですか、もう。[完璧に外観で得していますよ。この間鈴木宗男さんにお会いしたら、「自分みたいに不細工でも結婚出来たんだから安心しろ」と言われました。私が独身だから(笑)]―それは悲しい(笑)。宗男さんは元気ですよね。またお嬢さんが元気。[鈴木貴子さん。この番組にも出て頂いた]―あの人の、色々あってもちゃんともう一回元気に復活するというのは凄いと思います。[逮捕されて癌になって、全ての人間の苦労をして、今、更に元気]―本当に凄いと思う。私は鈴木宗男さん程ではないけど、何回か浮き沈みを経験して。見ていて「これは頑張らなくてはいけないな」と思わせる人ですよね。政治家やっていると、みんな色々あるじゃないですか。選挙で落ちるとかスキャンダルとか。結構相談に来る人がいるんです、党派を問わず。[民主党の次世代のリーダーですから。安倍政権も500日経ちましたが、どういう思いが?]―ついつい第一次安倍内閣の事を思い出すんですよね。2006年から2007年かな。2007年の秋に体調を壊されて辞められたので。あの時とどうしても比較してしまいますが、本当に変わったと思います。変わった、圧倒的に。体調も良くなられたのだろうし、色々な準備をしているし。政策で違うところはあるけど、色々なものを乗り越えられたんだろうな、と思いますよね。そこは本当に凄いと思う。でもあの時あの辞め方をしてもう一回総理なると思っていた人は誰もいなかったと思います。もうビックリしました。所信表明演説をして代表質問の本会議の直前だったから、本当に信じ難いという思いだった。それを乗り越えた、というね…。[政治って何があるか分からない]―あと、それを受け入れる国民が。日本人って優しいですよね。私も随分それに救われたけど、宗男さんも勿論そうだし、多分安倍さんもそうだと思う。[日本人は二世が好き、伝統的なものとかエスタブリッシュメントなものとか]―あとは、物語が好きなんですよ。例えば安倍総理であれば、お父さんは安倍晋太郎さんで、惜しくも総理になれなかった。お祖父さんが岸総理で、戦後の安全保障で色々大変な時にやっていて、で、やり残した事がある、みたいな。[確かに好き]―好きですよね。民主党の政権って三代あったんだけど、何の物語も無かった。ちょっと鳩山さんが物語的なるものを持っていたけど、ちょっとまぁ、ああいう形で終わって。でも菅さんにはあまり物語が無いでしょ?まさに「成り上がりました!」という。[市民運動家というイメージがあると陰では言われる。実際に会うと違うのでしょうが]―アグレッシブで面白い人ですけど、そういう物語を語るという事はあまり無かった。野田総理が少しあったのは、お父さんが自衛官だから。そういうものを背負っていた総理大臣というのはあったけど、やはり今の安倍総理とは違いますよね。[細野さんも、尊敬されている政治家というのは自民党にいる?]―そうですね、何人かいます。[例えば大平正芳さんとか]―そうですね、あとは、私の選挙区では石橋湛山総理、短かったんですけど。その時代、三角大福中の時代は二世ではなかった。ただ一代で物語を築いたんです。例えば大平さんもそうだし、田中角栄元総理なんかも、まさに物語を築いたじゃないですか。物語はでっち上げるのではなくて生き方だから、そういうところで民主党の場合はあまり二世がいないので、自分一代の生き方そのもので示さなければならない。[結党が96年?98年?]―今の民主党になったのは1998年。[98年から歴史を作れというのは無理]―それでも16年?随分色々な事がありましたが、ここからどうなるか、という。[役職が無い細野さんは意外な感じが…。総理補佐官から始まり何をされていた?]―総理補佐官が菅政権、その前は無役だったんです。菅さんと小沢さんが代表選挙をやって、小沢さんの方についたんですけど負けてしまって、そこからしばらく無役だった。無役の時は仙谷官房長官だったんだけど、漁船衝突事故というのがあったでしょ?中国に行って、いうならば飛び道具みたいに動いていて。で、次の年の正月に総理大臣補佐官になって、と思ったら3.11だったから。それでその後6月に大臣になって、それから1年3ヶ月か4ヶ月位やったんですよね。それで政調会長をやって、幹事長をやって。もうその辺りはひたすら坂道をゴロゴロ…。[幹事長の時はもう安倍政権?]―そうですね。[集団的自衛権の話では、自民党内部か自民党と公明党の話になって、民主党は蚊帳の外となっている?]―そうですね。野党が殆ど存在していないかの様に言われるのは非常にまずいと思う。安全保障の問題は、本当にお互いにちゃんと議論して一致点が見出せて国民に説明出来れば、むしろその方が良いと思うんですよね。問題なのは、内政を含めて色々問題があるのに、それをなかなか指摘しにくい雰囲気があるのではないかと。[どうして?]―やはり安倍政権が人気があるでしょ?そうすると、批判をすると私のところにも抗議が来るし当然メディアもそうだし、評論家とかそういう人のところにも多分抗議が来るんだと思う。だから批判をする時はちょっと構えるんです。それを安倍政権が上手く使っているところがあって。[どういう風に?]―例えば、参議院選挙の前に田中均さんという外務省のOBの人と安倍さんがFacebookで論争したじゃないですか。(田中均さんに)「あなたには外交を語る資格は無い」と言って。そこに私も参入してエライ事になったんだけど、もう(安倍さんの)圧勝だったわけです、そこは。それから色々な評論家の筆が一瞬鈍ったし、自分に都合の悪い事を報道されると取材を拒否するみたいな事を結構やるから、そうするとあまり批判をしないようにしようとなってしまう事があるので。[細野さんが野党になってからお出しになった本には、過去の経験を踏まえて批判を表に全面に出したら良くないと書いてある]―まあ時と場合によります。[自民党が野党になった時に谷垣さんが民主党の批判をした。とても崇高な方なのに「何て下劣な」と一瞬思ってしまいました]―論争と批判というのを区別するのはなかなか難しいですよね。建設的な論争をする為には違いを際立たせないとならないから、そうすると相手の政策を批判しなくてはならない。出来るだけ冷静にやろうとするんだけど、それが単に足を引っ張って見られると意味がないので。その辺のやり方は工夫が必要でしょうね。[自民党は細野さんを欲しいでしょうね。民主党から細野さんを抜けば脆弱になるから]―初めから民主党にいますからね(苦笑)。[「細野豪志が自民党に来た」となったら、民主党の歴史は無くなりますよ]―いやいやそんな事はないですよ。私から見ると、自民党はプロ野球で言うとジャイアンツ。名門の選手がドラフト一位で入るわけですよ。私は阪神というか…阪神ファンに怒られる(笑)。しかもそこにドラフト外で入った感じだから。ようやく一軍で使ってもらって。今更ジャイアンツにそんな、という感じはある。これは政策の話と違うんだけど、やっぱり元々どちらかというと弱い方の政党に入っているから。[みんな最後はジャイアンツに行きたがるのでは?]―そういう風になってなるものか、というのがあるんですよ。政策もちょっとニュアンスが違うわけです。多様性…色々な違う人がいた方が良いとか、外交なんかも、国を守るという意味では同じなんだけど、その上で国際協調していきましょう、みたいな事をわりと民主党は言うでしょ?出発点がやや違うところがあるので、簡単には巨人には行きません。ただもうちょっと…民主党にはいるけど(自民党と)話し合いはした方が良いと思う事はあるんですよね。例えば安全保障。実は昔はやっていたんです。「有事法制」なんかは、10年以上前ですけど、自民党と公明党と民主党で議論して決めた。今あまり想像出来ないでしょう?[出来ない。そういう時もあったんですね]―あった。2002年とか2003年頃かな。あと「国民保護法制」とかね。だから、建設的に議論してやって行きましょう、という雰囲気がもう少し国会に出て来ると良いと思う。[安倍さんと親しく話しをする事は?]―安倍総理とはあまり無いですね。確かに自民党でも仲良くなる人とは仲良くなるんです。人間社会だから、同じ民主党の中でも仲の良い人とあまり反りの合わない人がいるじゃないですか。それと同じ様に他の党でも仲の良い人はいる。かれこれ私も政界に15年程いるので仲の良い人は随分出来ましたけど、安倍総理とはあまり接点が無かったですね。

●幸せ度数年表

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第118回細野豪志

[1971年、どちらで生まれた?]―私が生まれたのは京都府の綾部という丹波の山奥。関西弁喋るんです。[普段ちょろっと出る?]―出ますね、時々。関西弁は全国区で、どこで喋ってもウケると思っていたんですけど、東京で就職してデカい声で関西弁を喋っていたら、彼女に「ちょっと小さい声で喋ってくれ」と言われて、これは東京弁覚えないかん、と思って。頑張りました。[子供の時はガキ大将だった]―まあそうですね、身体デカかったから。[昔から政治のセンスがあったそうです]―ん?何ですか?[何故かと言うと、ポカーンと口を開けてテレビを観ているから、「豪志、駄目だ」とお父さんが怒って、テレビを捨てられた。それでテレビが無いからテレビの話をしたくなくて、周りにテレビの話を禁止した。凄い統制力(笑)]―テレビ世代なんですよ、小学校の高学年5年生6年生だから。それこそ「ひょうきん族」とか「8時だよ全員集合」に「トップテン」、「ベストテン」と毎晩8時からのテレビが話題になるから、次の朝、話についていけないわけです。[そして受験に失敗]―そうなんです、わりと幸せな子供時代だったんですけど。その前も色々あったけど、それでも概ね幸せ。[細野家はどういう家?]―うちの親父はサラリーマン。私が大学の三年生の時に父親は会社を辞めてしまって。星一徹みたいな親父だったから。姉がいるんですよ。姉が卒業するまでは「学費は払ってやる」と言っていたんだけど…。[だけど「豪志は駄目だ]と]―(姉が)卒業した瞬間に、「お前は自分でやれ」と言われて。[バイトをして]―そうそう、学費はタダにしてもらったから有難かったですね。後は生活費を稼いで。[親が仕事辞めると学費がタダになる?]―国立はタダになる。これは有難いですよね。学費は国立でも結構かかりますからね。50万かかるから。これ(「受験失敗」1回目)は高校の受験ね。これ(「受験失敗」2回目)は大学の受験で浪人もした。[(高校受験失敗後)ここで(幸せ度数が)上がっているのは?]―高校受験に失敗して、開き直って楽しい高校時代を送り(笑)。高校時代はすごく楽しかったんですよ、好きな事をやっていたから。で、また(大学受験)失敗(笑)。[高校も京都?]―滋賀県。育ったのは滋賀県です。で、一浪して受かって、大学時代は結構よろしくやっていました。それで社会人になって会社員5年やって。そこはそこそこ頑張っていたんだけど。[どちらの会社?]―三和総合研究所という会社で。[今でいうシンクタンク?]―そうです、今は会社の名前が変わりましたが。ここに5年いて。[この間に阪神淡路大震災のボランティアをされて。それで政治家になろうと志した]―そうですね。[この頃は「政治家になる」とひとこと言うだけで変人扱いだった]―あ~!そうでしたね。変人ですよね。すごく私はラッキーだったと思うのは、初めに「政治家になりたいんだけど」と言った時に、「やめとけ」と言われるとやめる人は多いと思う。その時(私が)言った人が、「やってみたら」と言ってくれて、それでその気になったんですね。[政界も玉不足というから]―そうですよ、周りに政治家になるという人がいたら、まず「良い事だ」と言わなければダメ(笑)。本当にドンドン入って来てもらわないといけませんからね。[そして落下傘候補として初当選された]―28歳で当選して。その時も変人扱いされましたけど。[何党で受かった?]―民主党。民主党が出来て最初の衆議院選挙です。だから、「民主党」という旗を持っていると「民社党」とよく間違えられた。特に伊豆半島という田舎の方だったので。[静岡5区に落下傘候補として行かれた経緯は?]―当時は静岡7区と言った。区割りが5増5減で静岡は一つ減ったので…7割は新しくなったんですけど。7区にしたのは公募でね…とにかく2000年に出たかったんです。子供も生まれて、ちょっとこう、自分で「ここでやりたい」という思いが強くて。大学時代、先輩の前原さんと顔馴染みになっていたから、それで行ってみたら「一回待て」と言われたの。「そしたら滋賀県も何人か引退もするし選挙区も空くから、良い所が空くかもしれないから」と言われたんだけど、まあ生意気じゃないですか、「オレはやるんだ」って思っているから。「絶対待たねえよ。どこでもいいから」って言って、いくつか指名してくれた選挙区の中のひとつが伊豆半島だった。初めはどこでもいいと思ったんだけど、伊豆半島ってものすごくいい所でね。メシは美味いし富士山も見えて風景もいいし、海もきれいだし。「ここはオレをきっと待ってる」って勝手に思って行ったんですけど、まあ大変でしたね。最初は大変だった。[相手候補が代々続いている保守的な方ですから]―でも考えてみたら相当無謀で。同級生いない、親戚いない、民主党という政党がほとんど知名度なくて党員もいない。そこにポッと来て、朝街頭演説して、一軒一軒回るわけですよね、後援会に入って下さいって。ちょっと変じゃないですか。相当いかがわしいですよね。当選していない政治家って、残念ながらいかがわしく見られちゃうんです。あと驚くことがいっぱいあって、水をかけられたり、たまたま相手の現職の人の後援会の役員の所に行ってえらい怒られて。犬に噛まれたりとかね(笑)。それでも初めてだったから怖いもの知らずで、ガンガン…。[今まで落選経験は?]―ないんですよね、運よく。落選を経験している人のほうが、当選の有り難みがわかる、っていう人もいますけどね。政治家にとって選挙というのは唯一のバロメーターですから、それは大事にはしていますけど。[…「フライデー」って書いてあります]―これ1年くらい大変でしたね。3期やって、ようやく世の中に少し認知されてきた頃だった。[そういう時に気を付けなきゃいけない]―そうですね。[そして、政権交代がやってきます]―あんまり絶頂という感じじゃなかったんです。頑張んなきゃな、みたいな雰囲気で。少しずつ自分のやりたい事が実現できたりしてきていたんだけど…まあ、それで3.11ですよね。そこからは厳しかったですね。[2~3ヶ月家に帰れなかった?]―家に帰らなかったのは一週間くらいかな。家には帰っていましたけど、ずっと緊張感のある生活でしたからね。[長い政治の歴史の中で、民主党が政権を取ったこのちょっとの間に、こういう事って起きるものなんですね]―3月11日の、あの時間何をしていたかとか、それから12日、13日…克明に憶えています。15日に東京電力に行って。だからもう忘れないですね、その時の風景とか場面とか。私が残念だったのは、もっと現場で頑張っている人たちが賞賛されて良かったと思うんですね。東京電力の社員さんもそうだし、自衛隊の人もそうだし、警察も消防も、みんな頑張りましたよね。あれだけ大きな災害があったので、この際管政権の評判が良くなるとか悪くなるとか、管さんが人気があるとかないとか、そんな事はどうでも良くて、やっぱりそこの頑張っている人たちを早い段階からみんなで励まそう、という仕組みを作れなかったのは本当に残念だったし、現場の人に申し訳ないな、という思いはありました。[やらなくちゃいけない事ばかりで、とても危機には対応できないような状況だった]―地震があって大変な被害の津波があって、プラス原発事故。政治家だけじゃなくて、官僚の皆さんも自治体の皆さんも本当に大変でしたよ。それをちゃんとやり切るだけの、国家として態勢があったかというと、なかなかそうはなっていなかった、という事だと思います。[福島に対する収束宣言を出したのは、細野さんだった]―野田総理と話をして、私が文章を作って総理が記者会見をしました。[それで賛否両論が。細野さんは、もっと安心してほしかった、という言い分があった]―ちょっとペースを変えなきゃな、というのはあったんです。現場の皆さんも本当にしんどい中で半年以上やっていたんで。休憩もして体調も整えて働いてもらわないと、もう持たないと思った。[それが一人歩きした]―そうですね。福島の皆さんに色んな形でご迷惑をかけてしまったので、そこは申し訳なかったな、と思っているんですけど、福島の皆さんにも、帰れる所の皆さんには帰ってもらいたい、という思いもあったものですから。それをどう表現するのか、中でずいぶん議論して、「じゃあ、こういう形にしようか」という事にしたんですけどね。[その時民衆党政権としても苦労されたと思うんですが、安倍政権になってそういうのは継続されてる?それとも完全に切れてる?]―いや、そんなことはないですよ。災害対応や原発の事故対応という意味では、かなり継続していると思う。その時解決できなかった問題を、今しようとしているのもあるし、その時に「将来こういう事が起こるだろうな」と思ったことを、今取り組んでいる事もあるので。私は、そこは足の引っ張り合いじゃなくて、協力するところは協力しようと思って、いくつかやっている事はあるんですよ。[もどかしいな、と思う事はあるんですか?]―時々心配になるのは、事故があった時私たちは当事者だった。だから当事者意識だけは強かったんです、何とかしないといけない、と。できるだけ全ての情報を集めて、自分で決めて最後まで責任取って、という意識は強かったんだけど、安倍政権の閣僚の皆さんは後から入っているじゃないですか。たまたま役職に当たった時に「オレがやるの?」みたいなね、そんな雰囲気が全くないわけでもないんですね、人によっては。それは我々の時にはなかったから。これからまた代も変わるので、当事者意識がだんだん薄れてきやしないかな、という事を心配してますけど。[また内閣が変わりますからね。中枢にいたのに今は外にいる、というのは、何とも言えない気持ちでしょうね]―そこはそれぞれの立場があるから、今の私の立場でやれることをやろうと。官僚の皆さんや福島の方で、色々相談に来ることもあるし、そこは見えない所でもサポートするときはする。あとは個人でNPOを作ったので、そこでサポートできることもあるので。何事も腐っちゃ何にもならないから、その場その場でしっかりやる、という事だと思いますけど。あとは時間がかかるから。特に福島の場合は30年、40年かかりますから、40年先の事も考えて、ちょっとでもやれればな、と思ってますけどね。[ここは(幸せ度数が)下がってますけど…]―これも政調会長、幹事長と、やってもやっても選挙で負けて…。[安倍政権になってから]―そうですね、衆議院選挙、参議院選挙と負けましたからね。これはまあ、一生懸命やったんですけどね、3年間の評価というものがありましたから。ここが、かなり(幸せ度数が)低いですね。あまり私は悲観的にならないんですけど、この時はなかなか厳しかった。[幹事長は辞められた?]―辞めました。去年の夏、参議院選挙の責任を取って。[選挙は厳しい]―厳しいです、選挙は。いつも厳しいけど、特に民主党という看板で戦う事自体が厳しかった。[リーマンショックからの長引く不況や、3.11の残像が民主党にはある。それは理屈じゃないんですよね]―仲間内の話ですが、私が申し訳ないな、と思うのは、1回目で通った人の中で2回目で残った人って5人しかいないんです。頑張れば帰って来れる、という環境なら個人の努力なんだけど、頑張ってもほとんど帰って来れないような選挙になっちゃった。もう3期とか4期になると自己責任ですよ、選挙はある程度。ただ1期の人はなかなか苦しい。そういう人にチャンスを与えられなかったことは申し訳ないな、と。「自誓会」を作ったのも、そういう人をできるだけ引っ張り上げてこようという思いがあって。自分に誓う会と書いて、「自誓会」です。4月7日に発足しました。[何人ぐらい?]―現職が12人。[普通に生活していればテレビと新聞とネットしか見ないから、民主党がどんなに発信しようとメディアが取り扱ってくれないとわからない。すごい活動をしているんでしょうけど…]―やっぱり民主党というと、鳩山さん、管さんのイメージが強いし、失敗した、というイメージも強いんだと思う。実際問題として鳩・管を超える政治家を出して政権を取ることは出来なかったわけでしょ?インパクトのある政策は確かに打ち出せなかったし、安全保障も…民主党なんて心配で安全保障を任せられないと思っている人多いじゃないですか。[そうですね、中の考えも色々隔たりがありますし]―今の「そうですね」には迷いがありませんでしたよね(笑)。やっぱり安全保障も立て直した方がいいと思っていて。「経済」と「安全保障」、あとはバラバラにならない…「統治」ですよね。この3つの課題をちゃんと克服したいと思って、「自誓会」を作ったんです。[細野さんは企業献金はもらっていないんですよね。個人献金のみで3千万集めた(笑)]―多い時には5千万です(笑)。有難いですよ、千円とか寄付して下さって、それを大事にしてきたから。[田原総一郎さんも?]―そうですね。[いくらぐらい?]―いや、まあそれは(笑)。田原さんは高校の先輩なんです。田舎の彦根東高校という、公立の学校で。有難いですね。

 

●最近の政治トピックス

 

―今日ちょうど国会質問してきたんです、文部科学委員会で。教育委員会の改革の法案を議論していて。憶えていますか?2011年に大津で(生徒が)自殺しちゃった事件があって、それがきっかけで教育委員会が無責任じゃないか、と大きく変えようということになった。結局教育委員会は残す形になって、市長さんと教育長さんが議論して物事を決める「総合教育会議」を作ってやっていこう、という折衷案のようなものになったんですけどね。もう少し大きく変えたほうがいいんじゃないか、というのが私の考えなので、そんな議論をしてきたんです。1年間に法律って150本くらい通るんですよ。かなり多くの法律は個別に議論して、修正とれる所は修正とって、賛成しているんですね、野党も。大体7~8割くらい賛成しているんです。意外でしょ?野党になると反対ばかりしているイメージだから。我々が与党になる前も7割くらい賛成したし、自民党が野党の時も多分6~7割くらい賛成していると思いますよ。国会という場所は、ちゃんと議論して合意を得るべく努力をしている事もあるんだけど、そこは面白くないから、ニュースとしてのバリューが低くて報道されない。それを知ってもらいたいな、と。

 

●今だから言える、あの日のあの出来事

 

―2010年の秋の漁船衝突事故。中国に私行ったんですけど、あの時は本当に迷いました。その時私は地元に帰っていたんですが、官房長官だった仙谷さんから電話がかかってきて「中国へ行ってくれないか」と。その時の条件って最悪で、船長を逮捕したんだけど途中で釈放したんです。ところがその前に、中国側にフジタの社員が逮捕されていて、日本側とは没交渉みたいになってたから、あらゆる条件が悪かった。しかも私は役職がない。正直言うと、あの時の政府の対応の仕方については本当に残念だ、という思いがあって。逮捕するにしてもちゃんと方針を決めてやるべきだし、政治的判断が必要であればそれはすべきだ、と思いがあったんです。そのうえ、最後の最後にその追い込まれた状況で一人で行っても何ができるかわからないし、「そんなのオレの立場で必要ないよな」と思った。「ちょっと考えさせて下さい」と電話を切って、1時間くらい考えて。最終的に行くことにしたんだけど、そういう状況でも今自分に頼ってきてて、わずかでも状況を変えるのに、1歩でも半歩でも1ミリでも世の中にプラスになるなら、「せっかく政治家になったんだし、行こうか」と思って行ったんですよね。私の立場的に、帰ってこれないんじゃないか、と大変でしたけど(笑)。それからの私の信念は、ちょっとでも状況が良くなるのならやってみよう、と。自分がどう評価されるかじゃなくて、やることでちょっとでも役に立つことがあればやろう、と思った瞬間が、1時間後に仙谷長官に電話をかけ直して、「わかりました。私中国に行きます」と言った時だったかもしれませんね。[それが、その後の3.11の東電でのひとつひとつの判断になったんでしょうね]―それはそうですね、つながっているかもしれません。あの時に東京電力に行って良かったのは、政府と電力会社が、あの期間一体になった、ということ。まさに「オールジャパン」である、と。自衛隊もそうですよね。あそこで本腰入ったんで。日本の政府と自衛隊が本腰入ったから、アメリカも本腰が入った。同盟国ってそういうものですよね。[管さんが、そこで東電が撤退するのを止めたんですってね]―管さんの判断は良かったと思っているんです。その後、参議院選挙も含めて管さんとは色々あったけど(笑)、あの時の判断は私も良かったと思っています。

 

●質問コーナー

 

Q : 民主党の代表になれたのに、なぜならなかったのか?民主党を離党する気持ちが、今あるんですね?

 

A : 「あるんですね?」とかって言われちゃったんですけど(笑)。あの時は野田政権だったんですよね、2年前の9月かな?当時は原子力規制委員会のいくつか残した課題があったので、それがどうしても引っかかったんです。もうひとつは、正直言うと、総理になって人事をどうするのかとか、たくさんある懸案をどういう優先順位でやるのかとか、それが自分の中でしっかり整理できてなかった。準備なくやっても、本当に国民の期待に応えられるか、と考えたら、やっぱり今は野田さんがやったほうがいいんじゃないか、と思ったんです。[その時はまだ準備不足だった]―漠然とは思っていたの、総理になるってどういうことかな、って。でもそこで初めて具体的に考えたので…それから2年程経つんですよね。その時からは、「じゃあこういう事をするためには何が必要か」と考えるようになりました。[来年の代表選、どうですか?]―(笑)これもねえ、「はあーい」っていう学級委員長さんじゃないから。そういうものでもないんですよ。[昔、生徒会長の選挙に落ちたんですよね。落選経験ありました(笑)]―そうなんですよね。初めて選挙に出て落ちたんですよ。あれは結構ハートブレイクでしたよ。やっぱりそれが悪かったかな(笑)。(離党に関しては)今は、政党がバラバラになったり、政策や理念に関係なく集まったりしても国民の期待は受けられないし、あんまり意味はないと思うんです。だからまず、民主党の底上げをする。そのうえで、色んな連携の可能性はどんどん模索していったほうがいいと思いますね。[まずは民主党を一枚岩にすること、更にこれからも強化するということで、よろしいでしょうか]―はい、頑張ります。[今日ちょっと私喋りすぎね、(お会いできたのが)嬉しくて(笑)]