赤嶺 政賢
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第196回
2016年11月30日 放送

日本共産党 赤嶺 政賢 衆議院議員

赤嶺議員は、1947年沖縄県那覇市宇栄原の農家に生まれました。

現在、衆議院議員6期目ですが2014年の選挙にて、ついに沖縄一区選出の議員となりました。

幼い頃から、米軍の沖縄支配を目の当たりにし、1958年まで当時の沖縄の貨幣B円(B型軍票)やドルを使用する世界で育った

赤嶺議員ならではの体験や、それによって得た考え方が、沖縄1区の代弁者となりました。

つねに「沖縄ファースト」の目線で、国会では戦っていますが、

一問一答、安倍首相とのやりとりでは「安倍総理は、質問者の私の目を見たことがない」と憂いています。

トランプ次期大統領になる事からの、懸念・要望も語ってくれました。

沖縄の海と自然を守り、基地なしでの観光立国を実現させます!!

 

(動画より文字起こし)

共産党 (沖縄1区)  6期目 (2016年 11月 30日 収録時点)

[トランプ大統領になって沖縄の基地がもしかしたら無くなるかもしれない、赤嶺さんの本意じゃないかもしれないけど、結果的には本意になるという現象が今、起きていますけども。そういうことに関しては沖縄1区の国会議員としてはどういうお考えなんですか?] ― やっぱりね、沖縄の米軍基地というのは沖縄戦の時に米軍が上陸して、その日から作り始めたのが今の米軍基地ですから。[赤嶺さんは何年生れですか?] ― 私は1947年で、戦争が終わったのは1945年です。生まれた時から基地はあった。トランプさんが次期大統領になって、基地がなくなるかどうかとうのは良くわからない話で、なってみないとわかりませんが。ただアメリカはやはり海外に軍事基地を置く覇権主義的な態度ですね、これは終わらせて欲しいと。誰が大統領になろうとも、という気持ちは強く持っています。[小さい時から米軍の横暴な態度をずっと目にしてきた訳ですよね] ― 私が小学校6年生の時に離れた学校なんですが、宮森小学校という所に米軍のジェット機が墜落して、学校の校舎でたくさんの子供たちが犠牲になって。ちょうどその時校長先生が、当時体育館などありませんでしたからグラウンドに集めて、その学校に黙とうしようと。その学校が前の年に林間学校で私たちが泊まった学校だったものですから、その時の悔しい気持ちを今でも覚えています。[基地がなくなることを訴えてこられましたが、急に基地がなくなることの住民の不安というのも考慮してらっしゃいますか?] ― いえ、米軍基地は一日も早くなくなって欲しい。米軍基地がなくなった後、ちょうど今の米軍基地がある場所が景色の眺めがいい場所だとか、豊かな畑や田んぼがあった場所だとか、いろいろありますので跡地利用が大変なんですね。米軍基地がなくなった後の跡地利用を政府が責任を持ってやっていくというのが、私たちの仕事だと思っています。[基地があることの補助金がなくなってしまうのは困るんじゃないかというのが一般的な話ですが] ― あのね、基地があるから沖縄が潤っているということで言えば、沖縄は日本一潤っていなきゃいけない訳ですよね。それが日本一貧しい県ですから。やっぱり基地は沖縄の経済や産業の発展の最大の障害だということで、今の翁長知事もね、保守の立場ですがそのことを訴えられて。基地があるから補助金もらって生活してるということは一切、基地に頼った経済の依存度はだいぶん低くなって。もう基地がなくてもやっていけるという自信を県民は持っていると思います。[そこを押し出して欲しいですね。基地がなかったとしても観光立県としての強みがあるから大丈夫だということですよね] ― こんなに観光客が来るとは思ってなかったですからね。米軍の統治下にありましたから。[赤嶺さんは生れた時はドルを使っていたんですか?] ― はい、ドルじゃなくて、ドルの前にB円というのがあったんです。日本円じゃなくてB円、ABCのB円。B円を使っていました。小学校5年の時にドルへの切り替えがありまして。結局、政治経済のすべてが米軍の支配下にあったので、ドルを使わされていたと。私、大学は東京の方の大学で。夏休み、沖縄にみんなで帰ったんですよ。戻って船の上で4月から7月のことを語り合っている中で、鹿児島の港で円をドルに切り替えるんですね。沖縄に行く時は。ドルを久しぶりに見て懐かしいなと言ってしまったんですよ。友人たちが集まっている場所で。そうしたらその友人から、「君はドルを懐かしむのか、それを不当な事だと思わないのか」といきなり言われてですね、その時に言ってしまった自分も悔しいし。やっぱりね、ドルを使わされていることを気付かされた。その時期でしたね。

「●幸せ度数年表」

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1947年に沖縄県の那覇市で、当時は小禄村ですね、那覇空港のすぐ近くです。そこで生まれました。18歳で大学に入学して、1966年でした。私、19歳で日本共産党に入党したんですが。私たちが大学に入学した頃はパスポートを持たなければ東京に来れなかったんです。そのパスポートも日本国国民と書いてなくて、琉球住民、赤嶺政賢とあるんですね。私たちは一体、何人だという時に、日本共産党が沖縄返還のために頑張っている、同時に規約の中に18歳以上の日本人なら入党出来るという資格要件があったんです。それを見て、私たちも日本共産党に入ることによって、日本人と言うアイデンティティーが得られるんだという一途な思いで。ちょうどその頃にね、初めて雪を見たんです。[東京で見たんですか?] ― 大阪です。建築現場があってね、何か知らんけど金くずのような物が落ちて来るなと思って。雪だ!雪だ!と言ってみんなで騒ぎました。沖縄の子供たちの憧れは雪を見ることですよ。[東京なんて雪が降るとみんな舌打ちして嫌がってますよ。(笑)] ― 雪の辛さもわかるようになりました。(笑) [沖縄の人はコートを持っているんですか?と質問のメールが来てますよ] ― コートね、東京に来てから買いました。[お友達がドルを懐かしむなんてとんでもないとおっしゃったかもしれませんが、私たちの子供の頃はアメリカは憧れの国で。現地でアメリカ人の横柄な態度とか事件がある中での気持ちは違うと思いますけど、アメリカへの憧れとみたいなものは?] ― それは一切持たなかったですね。やっぱり権利が無い状態、米軍の基地の取り上げがね、問答無用で始まる訳です。手続きなんかあってなきがごとしですよね。沖縄のあちこちで土地の取り上げが始まった時に測量しているのを見ると、またうちの村に基地が作られるかと、みんな震え上がっていたという。[じゃあ、勝手に土地が取られてしまうということなんですか?] ― コカ・コーラの1本分位の地代は出すと言うんですよ。先祖代々の土地を譲れないと言うと、強制的に取り上げる米軍の布令があるもんですからね、それで銃剣とブルドーザーで取り上げていく。[布令とは何ですか?] ― 米軍が出す法律です。ですからね、米軍が自分の必要な物のために法律は全部自分で作れる。それに従わなきゃ罰する。という状態でしたからね。[その当時本土ではアメリカと友好関係結んでいる時代ですよね。アメリカ人、かっこいい、優しい、良くしてくれる、そういう機運が高まっている時に、沖縄ではアメリカの本質が出ていたということでしょうか] ― 戦争の結びついたアメリカを沖縄でまざまざと見せつけられたというね。もちろん、アメリカの文化やアメリカ人の気質ということについてね、いろいろ考えるところはありますが、やっぱり私たちの生い立ちの中では戦争と結びついたアメリカしか見れなかったというのがありますね。[1972年に祖国復帰されたというころで] ― 祖国復帰の時はやや事情が複雑で、みんな基地のない沖縄が実現できると思っていたら、復帰が近づくにつれて基地が残るということになって。祖国復帰を決めた沖縄返還協定を締結したんですが、沖縄協定に反対する運動が大きく広がるんです。ここはちょっと幸せ度を下げてみました。[八重山で党専従とありますが] ― 私は教師として石垣島に赴任いたしましてね。この頃まで共産党は沖縄では認められていなかったんです。赤旗新聞を持っているだけで睨まれるという時代でね、祖国復帰が実現して共産党が公然と活動できるようになって。私、教師をやってたんですがね、ここで共産党の仕事をしてみないかと八重山で言われまして。若いですからね、情熱がある時代でしたから、そこで共産党の職員に専従になりました。小さな島でね、でもとっても楽しかったですよ。[現在は衆議院議員で6期目なんですね。凄いですね!安倍さんよりと同じぐらいですか?] ― 安部さんは一期上です。[閣僚級の回期ですよね] ― (笑) [たまたま入った党が、これからですよね。今、一番熱い党ですからね] ― これからです。(笑) [その前には市議議員をされてたんですよね] ― そうです、那覇市の市会議員をやっていまして。[その時の構図としては共産党は多かったんですか?] ― 那覇市の市会議員は共産党は7名おりましたので。44名中7名で、与党では第一党。当時、親泊市長という大変すばらしい市長さんがされて。市会議員の時も生活相談をずっとやっていたんですがね。一番多い相談が戦争中に子供を負ぶって日本軍の炊事をさせられた。その時に背中に負ぶった赤ちゃんが弾に当たって死んだ。何とか保障出来ないかと、戦争の時の相談がまだまだ片付いていない、制度的にもですね。[何年位のことですか?] ― 1979年位ですかね。[もはや戦後ではないと言ったのが昭和30年かもしれないけど、とんでもないということですよね] ― そうですね、戦後を引きずって引きずってきている。[2014年、オール沖縄勝利とはどういうことですか?] ― 衆議院に当選したのは2000年で、比例代表九州沖縄ブロックなんですが。2014年は沖縄の転換期でして、1月に名護の市長選挙がありまして。ちょうど辺野古の基地問題で基地に反対する市長が誕生ということで、大きな転換点だったんです。二期目だったんですけど。辺野古は大浦湾で、[これはジュゴンですね](ジュゴンとウミガメの写真がアップに)ジュゴンとウミガメが一緒に泳ぐ海と私が勝手に言ったら、専門家から一緒に遊んでいるのか、喧嘩をしているのかこの写真からはわからないんだと言われたんですけど。ジュゴンとウミガメが一緒に見られるようなここを埋め立てて基地を作る。安保条約に賛成でも、やっぱりここの基地は作って欲しくないと。翁長さん、今の知事さんですけど、安保には賛成だと。安保反対の私たち共産党とも一緒に力を合わせて辺野古を止めようというのが、2014年の知事選だったんです。その時に翁長知事さんが打ち出したスローガンが「誇りある豊かさ」だったんです。誇りと言うのは、基地がなければ生活できない、経済も成り立たない、そんな沖縄ではなくて沖縄自身の観光資源だとか産業だとかに誇りを持って。しかし基地に反対して豊かにならなくてもいいということじゃなくて、豊かな沖縄を作ろうと。「誇りある豊かさ」というのがですね、それが2014年で名護市長選挙と沖縄県知事選挙が、保守も革新も一つになって、オール沖縄と言う言葉が生れたんですね。11月が知事選でした。12月になったら急に解散になりましてね、私、知事選に一生懸命やっているうちに解散。1区2区3区4区と小選挙区は4つあるんですが、みなさんここまでオール沖縄で来たんだから、お互いに、1区は共産党の赤嶺を共産党でもいいと保守の方が言ってくれた。でもいいというのもあれですが。(笑) だからいいと言って欲しいところはあるんですが。2区は社民党の照屋さん、3区は自由党の玉城デニーさん、4区は本当に保守系の方の仲里さん。4人がオール沖縄で現職を落としてみんなが当選したんですね。根っこにあるのはね、辺野古の基地に賛成した自民党に沖縄の代表を語って欲しくないと。[その時に元自民党の下地さんは] ― 下地さんは比例で復活しましたけど。その時は私の1区での争いですね、国場さんとかね、落選して。基地に賛成した人は落選して、基地に反対した私たちがオール沖縄で当選したと言う転換点です、2014年。[基地の問題はね、中央に言われたくないと言うのが一番にあるでしょうし、そういう人たちを支持したのが県民のみなさんですし、民意ですからね] ― 私、よく国会で沖縄の基地問題を歴史的に取り上げるんです。とにかく不当な手段で取り上げられた基地が今、ちょっと古くなっているんですね。今、高江の森、地球上にこの場所でしか見れない熱帯雨林の高江の森ですね、(「この森は、やんばるの生き物のものだ。」のポスターがアップに)ここにオスプレーの着陸帯を6ヵ所作るという計画が起きているんですけれどもね。ここは1950年代に米軍が勝手に使い始めた所なんですよ。半分は返すというんですけど、返す半分は米軍が使うことが不可能だからこれを返すことによって、新しい着陸帯を日本政府に作ってもらおうと、思いやり予算でね。アメリカにとって好都合だと言って、河畔の土地を返還するので残る場所にオスプレーの着陸帯を作れと言って。それで今ね、沖縄の人たちが本当に怒っていてですね。[思いやり予算とおっしゃいましたけど、金丸さんが始めて、今はどうなっているんですか?] ― 今は毎年、毎年、思いやり予算で基地が強化されて、まだまだ続いています。だからアメリカはね、アメリカ本国に基地を置くよりは日本に基地を置いた方が安上がりだと、いい基地が作れると。[まだ植民地なんですね] ― そうなんです。そういうものと向き合っているもんですからね、自然にこういう話になってしまって。[戦後ってまだ続いているんですね] ― 続いてますね、戦後の解決の仕方というのは。やっぱり民主党政権が沖縄問題で失敗したじゃないですか、鳩山さんがね。自民党は力づくで県民に基地を押し付けているんですが、どんなに力で押さえつけてみても、基地と県民の暮らしというの矛盾というのは解決しないんですね。なくならない限り解決しない。だからね、今力づくで押さえつけてみてもね、県民はオール沖縄という形での団結した運動が広がっていくと思います。

 

●最近の政治トピックス

 

高江の森、ブロッコリーの森と呼んでいるんです。本物のブロッコリーのような形をしていて。(高江の地図が画面にアップされる)これが高江なんですね。ここが返還後に残る地域、返還される区域がこの辺ですね。ここに7か所の着陸帯があるけれども、古くなって使えないから、もう日本政府に返しますと。その代り新しい着陸帯をね、作りなさいと。ここは15か所今でもあるんですよ。着陸帯が高江集落を囲むようにできるもんですから、大変なオスプレーの爆音で苦しめられている所なんですがね。ここは世界遺産条約に登録すると日本政府は言っているんです。それ位、とても自然豊かな地域なんですがね。世界自然遺産条約で自然度が一番高い所がこの今、工事している場所なんですよ。ノグチゲラとかヤンバルクイナとか。残った場所を世界自然遺産にするんだと言いますけど、国民的にはやっぱりここも返してもらって、世界自然遺産にするとかね。少なくとも、ここの返還をやるなら、条件を付けるなと。移設条件を付けて、新しい所を絶対に作って欲しくないと。沖縄の基地はね、返還をすると言ったら移設条件付きなんですね。辺野古の埋め立ても、普天間基地が世界一危ないから、普天間基地を返しましょうと。その代り、代わりの基地を名護市辺野古に作って下さい。海を埋め立ててというのですからね、むちゃくちゃだということで。移設条件を付けるなと。[沖縄の県民の強い希望だけを聞いて下さいと] ― そうですね。[なんで上手くいかないんでしょうね] ― やっぱりね、アメリカが日本を守ってくれているという、抑止力という話なんですがね、沖縄にいる海兵隊って日本を守るために配備されている訳じゃないですから。ずっと海外を展開していますからね。殴り込み部隊ですからね。[赤嶺さんは質問をされたんですか?] ― はい、この間、国会で質問しましてね。予算委員会で安倍総理に対して。[どういう答えをされましたか?] -安倍総理は官僚の書いた文章を読み上げるだけで、二の矢、三の矢を繰り出しても同じ文章で。あの人ね、沖縄問題の質問をすると私の顔を見てくれないんですよ。読むのが必至だし、覚えているセリフも上を向いてしゃべるんですね。[それはちょっと、意思の疎通を感じないというか、悲しいですよね] ― 通じたという感じが一度もないですね。着陸帯を6ヵ所作る予定が2か所出来上がったんですよ。2014年からオスプレイが配備されて、騒音発生回数と言いまして、(高江での騒音発生状況のフリップがアップに)赤いのが昼間、紫が夜間。夜間もオスプレイが住宅の上空を。2か所でこれだけですから。夜間はいくらなんでもあんまりだろうと、質問したことがあるんですよ。田中真紀子外務大臣でした。そうしたらね、その時、外務省の官僚だったか、防衛省の官僚だったかが答えたんですけど、戦争は夜も行われますと言うんですね。だから夜間訓練しないとアメリカの戦闘能力が低くなるんですと言われた時にハッとしまして、戦争の訓練をしているんだと。戦争に必要な訓練をしているから、戦争と市民の生活と言うのは絶対に両立できないですよね。だから今の沖縄の現状はね、抑止力とか、安全保障とかで論じられる話じゃなくて、戦後強制的に取り上げられた米軍基地を返還して欲しいと。基地のない沖縄を作って欲しいというこの願いだと思うんですよね。安全保障を沖縄に持ち込むのは、やっぱり沖縄の歴史を知らないから。この間、菅官房長官が自分は戦後生まれだから、沖縄の戦後の歴史、辛いことがあったということはよく知らないと、辛いことで言えば日本全国辛かったみたいなね、発言をしておられたんですが。ただ、民間地が米軍基地に取り上げられているというのが沖縄の特徴なんですよね、民間の土地が。そういう米軍の犯罪が許されている社会、これを変えなきゃいけない。これも辺野古の海の海底のサンゴ礁。(辺野古・大浦湾のサンゴの写真が画面にアップに)林みたいですよね、海底から高くあって、一番大きなサンゴ礁だと言われているんですが。これが全部生き埋めにされちゃうんですよ。

 

●今だから言える、あの日のあの出来事

 

私ね、衆議院に当選した2000年は実は比例代表で最下位当選なんですよ。九州沖縄ですね。

[それでもバッチを付ければ同じですよ] ― その時、日本共産党の議席が私の前は古堅実吉さんとおっしゃいまして、その前が瀬長亀次郎さん。瀬長さん、古堅さんは県民からも大変尊敬されている、沖縄の矛盾を解決するために生涯をかけて頑張ってきた人たちで。その日本共産党の議席が私が挑戦候補者になった時に失われるかと思って、一瞬もう本当に沈み込んでいましたよ。午前3時頃、あの瞬間は忘れられないですね。[党から推薦されて出てると思っても、自分がいけないんじゃないかと思うものなんですか?] ― そうですね、(笑) あの時に不破哲夫さんが開票速報を見ておられて、電話がかかってきて。計算したんでしょうね、君、当選しているよと。僕はね、いや、そんなことはないですと言っていまって。(笑) あの時から今日まで約16年間ですね、大臣にはまだなれていないんですが。(笑) [6回ですよね!] ― 6回です。沖縄の心を国会へと頑張って。まだまだ頑張りたいなと思っています。[沖縄問題は赤嶺さんが急先鋒ですよね。沖縄1区ですし。一番の顔の地域で当選されてということですからね] ― まあまあ、そうですね。だから私個人と言うよりも、議席の重みというのは強く感じます。負けるなよという県民の後押しが、私を勇気づけてます。[16年経ってらっしゃるじゃないですか、共産党も変わったんじゃないですか?このような番組に来て下さるというのもございますし。清水忠史さんからずっと、若手も来ていますし] ― (笑) 若手が増えましたからね。とても素晴らしいですよ。よく勉強していますしね。初めての質問なんかで、自分が議員になる前に地域で積み上げてきたことを質問していましたけどね。私ら新人の頃にはあんな風には出来なかったなあと。本当によく勉強して力強いです。[共産党は国民の悩みを聞いているじゃないですか、それが力になっていますよね] ― そうです。[何百人の人と対話をしているじゃないですか、それは他の政党は敵わないなと] ― はい、草の根でやっぱり国民と結びついている。だからさっき共産党も変わったとおっしゃられたのは、野党共闘に今、一生懸命ですけど、あの野党共闘は実は沖縄で、私たちが安保賛成勢力とも辺野古反対で共闘した。志位さんなんかもね、私たちを一生懸命に援助してくれたけれど。[それが野党共闘のモデルケースなんですね] ― そうです、モデルケースになっています。だから、戦争法、安保法制の時にね、国会前に集まった人たち、去年9月が強行採決でしたね。4月位から人々が集まり始めたんですね。この時にね、沖縄の辺野古に似てるなと思ったんですよ。辺野古も沖縄の人々が自主的、自発的に集まっているんですね。あれ、国会前も辺野古の雰囲気だよと秘書のみなさんに言っていたんですよ。そうしたら辺野古をはるかに超えるあんな大きな戦いになって。野党共闘で参議院選挙の実績を作りましたから。[野党共闘はどうして出来たのかと思っていたんですけど、そういうことがあったんですね] ― 志位さんたちがオール沖縄の経験を、私たちだけで作ったんじゃなくて、志位さんたちの意見も聞きながらですね、後押しされながら出来上がったものですが、全国で広げようと。[沖縄の例を見て、こういう風にいけるなと、こういう風にやっていかなければいけないなと] ― 原発でも一致点が始まっていますしね、TPPも憲法もですね。必ず次の衆議院選挙で野党共闘が前進すれば、沖縄の基地問題がとても大きく前進すると思うんですよ。それはトランプ大統領の比じゃないですよ。あの人、何をやるかわかりませんからね。[共産党で初めて「みわちゃんねる」に出演して下さった、清水忠史さん、先日もう一度文字で起こして読んでみたんですけど。絶対に否定的なこと、ネガティブなことは言わないというのが凄いなと思いましたね。共産党が直面している難しい話でも、こういう解決策があるというような、非常に前向きで、提案型なんですよ。自分の選挙ポスターは「賛成です」と書いたらしいんですよ。今までにない共産党、反対するの共産党だというイメージが国民のみなさんにあったと思うんですけど、清水さんは「賛成です」をキャッチフレーズにされて] ― 昨日ね、清水君に帰り際に会ったんですよ。あした「みわちゃんねる」に出るんだと言ったら、あれ私が最初に共産党で出て、その後ずっと共産党で続いているんだと言っていました。(笑) [先日、沖縄のアンテナショップに行ったんですけど、いろんな物が売ってますね] ― サーターアンダギー、美味しいですよね。(笑) [お店で食べられるんですよね。オリオンビールもありますし、ウコンもいろんな種類があって] ― オリオンビールというのはコマーシャルが「オジイ自慢のオリオンビール」とみんな歌える。自民党に入らないと酒税の特別処置をしないよなんてね、自民党はどうかしてますよね。[一強状態がそうさせているんですね] ― 本当に強いかどうかわかりませんよ、次の選挙運動でね。道理がない勢力は破たんしますから。[何がきっかなるか、わからないですからね。なし崩し的というのもありますよね] ― はい。

 

Q;赤嶺議員は学校では何の先生だったんですか?

 

赤嶺議員;これは企業秘密でして。(笑) 私ね、国語の教師でした。もう、忘れています、全部。(笑) 私が教師をしていたのは八重山高校なんです。八重山商高でも。八重山商高は甲子園に出たんですよ。甲子園で一勝した時に校歌を選手と一緒に歌えるのは国会の議員会館では当然、私一人だけですが、校歌を歌って大変喜んだことがあります。山之口獏という沖縄出身の詩人の「会話」という詩があるんですね。「お国は?女は聞いた」で始まるんですが。いくら言っても沖縄のことがなかなか理解されないんで、最後は「赤道直下の向こう 亜熱帯の 知らないか」で結ぶんですけどね。我々は学生時代にその詩集を懐に抱いて自分を励みにしていましたからね。八重山で子供たちに、まだ沖縄でなかなか広まっていない時に教えて。教科書以外の教材で教えてくれた先生ということで、今でも教え子たちが思い出を語ってくれます。

[共産党としては国歌と言うのは歌わないんですよね] ― 君が代ですね。あれだけの戦争を体験した島でしたから、日の丸と君が代には大変複雑な感情がありましたね。[今、共産党のみなさんとお話させて頂いて、一概に私みたいな者が言えないんですけども、スポーツの祭典とかいろんなことがあった時に、国旗に背を向けたり、起立しないとか。共産党は共産党で気持ちがあるのは良くわかるんですけども、そこでオール日本になりたいなという気持ちはありますよね、正直言ってね] ― 一度、安室奈美恵さんがね、何かの祭典の時に君が代を口を開けてなかったから、自民党の森幹事長が沖縄で教育を受けたからああなったんだと。[その言い方も短絡的だから、(笑) ステレオタイプだからそうなっちゃう] ― 安室さんが歌ったのか歌わないのか、私にはわかりませんけど、地上戦が起こった島では戦争に結びつけて複雑な感情があるというのは否定できないと思いますね。歴史を正しく乗り越えていった時に、オール日本を我々も目指していますので。[君が代が悪い訳じゃないんですね。その体験が反映されてということなんですね。本当にみんなで君が代が歌える日が、国旗に起立出来る日が来ないかなと心から思いますね。なぜかと言うと、君が代が出る時はいい話の時じゃないですか。日本が勝ったりとか、今はね。これからはそうだと思っているんですよ。その時に党派を超えて分かち合いたいなと心から思いますよ] ― なるほどね。そういう意見をこの番組に出て言われたということは。(笑) そのお気持ちを受け止めてということで。(笑)