遠山 清彦
遠山ニュー
第152回
2015年04月15日 放送

公明党 遠山 清彦 衆議院議員

第152回のゲストは、公明党 遠山 清彦  衆議院議員でした。

飛び抜けた明るさと行動力、真摯な話と説得力!!

国会議員の中でもずば抜けています。

公明党を背負っていく人物だと確信しました。

政治の志の原点、ライフワークとなっている「離島問題」や、安全保障・自衛隊派遣についての自民党との会談内容、イギリスやヨルダンでのTOP会談など、実に幅広く語ってくれました。

みわちゃんねる、番組始まって以来の尺(長さ)でした。

(動画より文字おこし)

公明党 九州ブロック 参議院2期・衆議院3期目(2015年4月15日収録時点)

[色々なキー局のメディアに登場されて…]―いやいや、最近はあまり呼ばれないですからね。[でもお顔が知れてるから。特徴的なので、町を歩いても結構大変じゃないですか?]―いやいや、日本の人はあまり声をかけてこないですけど、外国の人がよく声をかけてきますね。[どうしてですか?]―(顔が)似てるんですね。僕は、「中」が付く地域に近いんですよ。中南米、ペルー人とかコスタリカ人とか、すぐ「アミーゴ!」って言ってきますから。去年はウズベキスタンに行って、4回真剣に現地人と思われましたから。ウズベキスタンの国会議員のふりはできました。あと、中東も強いですね。過去3回イランに行って、4回イラクに行っているんですけど、毎回必ず現地語で話しかけられて。英語で返して「オー!アイムソーリー」みたいな感じですから。外国人と子供とおばあちゃんと、犬、猫が寄ってきます。[若い女性は?]―全然寄ってこないですね。[そうですか(笑)。政治家は名前も大事ですしお顔も大事ですから。そのお顔が特徴的だから…1回見たら忘れない]―そうですかねえ。[早く公明党の顔に。手の届く所にいらっしゃると思いますから。今ちょうど統一地方選の真ん中なんですけど、低投票率ということで、自民党が一人勝ち。投票率も45%くらいですか?史上最低と言ってましたね]―私は九州・沖縄が地元なんですけど、一昔前だったら50%くらいあった所が、今40%前後。地域によっては40%切って37%とかですね。すごい低かった。[私は東京におりますが、東京は知事選が枠組みから外れてしまったから、選挙のムードは全然ない感じがしますけどね]―そうですね。[何と、この間の道府県議会政令指定都市の市議選があって、公明党からは344人立候補されたんですね]―345人立候補して1人落ちてしまったので、当選者が344人なんです。[公明党としては、許せない出来事ですね]―そうなんです。全員当選を目指していて…でも、前回の4年前の統一地方選挙でも、実は2人落ちてしまいまして…。その前2回は全員通ったんです。だから今回はもう一度完全勝利を狙ったんですけど、大阪で維新の会さんが強くて1人だけ落ちて。でも落ちたと言っても170票差で落ちているので、ギリギリだったんですよね~。[残念ですね~]―はい。まあ選挙は戦いですから。[でも、公明党が判断を誤ることもあるんですね]―判断を誤るというか、日本は秘密投票ですから、公明党とその支持組織がいくら選挙に強くて、組織的に戦略を立ててやっていると言っても、最後は投票所には皆さん1人で行って投票されるので、究極票を読めるかというと、読めませんよね。特に政令指定都市とか都道府県議会の選挙と言ったら万単位の票ですから、勝ち負けが100票200票で決まるとなったら誤差の範囲なので、そこは読めないです。だから、失敗したとはとらえてなくて、結果として力及ばず、と。そこは率直に認めるしかないと思いますね。[組織戦といえども、候補者の方も落ち込んでいますよね]―まあ、そうですね。唯一ですからね。でも、今日大阪の本部代表から聞いたんですけど、落ちた候補者と周りの方は「4年後にリベンジだ」という決意をすでに固めて、頑張り出しているということですから。[それは凄いですね。落選したあとの次の日は寝込んじゃいますよ。私も落選経験ありますし、遠山さんもありますしね]―私も2009年、民主党が政権を取った時の衆議院選挙で。参議院から現職をいきなり辞めて…参議院の2期目通ってまだ1年目、任期5年あるんですよ。太田代表からいきなり呼ばれて「(太田代表の真似で)遠山ちゃん、君は参議院向きじゃない」とか言ってね。はあ?今更?みたいな(笑)。僕7年もやってるのに。それで九州を地盤に衆議院に鞍替えすることになって、自分で辞表を出して現職を辞めて、九州に行きまして。当時、麻生太郎さんが総理になったばかりで、すぐ選挙をやる、と言ってたんですけど、リーマンショックで長く延びて…。それで私も浪人して、2009年の9月の選挙、初めて衆議院に挑戦したら落選しましてね。落選したら大変ではありますよね。[初めて出馬して落選より、立ち直れない打ちひしがれ感がありますね]―いや、でも結構元気でしたね。大変は大変、秘書さん雇えないんで、一人になって地元でワンルームマンション借りて、呼ばれたら公共交通機関を使って一人で行ったり自分で運転したり。みんな大体そんなもんだと思いますけどね。[でもやはりスタッフがいっぱいいた中で急に一人、となると、どうしていいかわからないですよね]―そうですね。ただ私はもともとよく喋るし明るいし、基本テンション高いので。だから浪人中も公明党の現職の、地方議員とか国会議員の講演会に呼ばれてたんですよ。私の当時の売りは、「落ちても元気な遠山です」というのが第一声で。そこでみんな拍手するわけです。それで場の雰囲気が明るくなるから、バッジつけてないのに意外と人気があったんですよ。[やっぱり「金さん」とか呼ばれるんですか?]―遠山の金さん?福岡の今の後援会のメンバーは、半数ぐらいが「代議士」とか「先生」とか誰も言わないですよ。「おお、金さん」とか言って。僕より年上の方も後援会に多いですから。「遠山の金さん」と呼ぶのが面倒臭くなって、簡略されて「金」と呼ばれるから、中国か韓国に戸籍を変えようかな、って(笑)。[今お話をしていて思ったんですが、遠山議員は声がいいですね。誰かに似てる]―これは、統一地方選挙の街頭演説を毎週気合を入れてやっていたら…[(声が)ちょっと嗄れてるんですね]―そうなんですよ。本当はもう少し美声なんです。[そうですか(笑)。…これ(遠山議員の著書「志力の政治」)をいただきました。有難うございます]―これ、全く売れなかったんですけど(笑)。でもコピーライターは一切使わなくて、全部自分で書いて推敲もして…一応読んだ方には評判がいいんです。何故このタイトルかというと、今の日本、特に政治は志の力があまり重視されなくなっているんじゃないか、と。要は学歴だとか、能力が高いとか低いとかそういうものばかりで、「何のために」が無いまま政治家になると、サラリーマン議員になっちゃうんですよ。「何のために」は言葉を変えると「志」だと思うんです。私は、志のある人が増える政界にしたいし、また社会全体で、学歴や能力じゃなくて志を持って頑張る人が尊敬される日本社会にしなきゃいけないんじゃないか、というモチベーションで、この本を書いたんです。

「●幸せ度数年表」

「クリックで拡大」
135

―1969年、昭和44年生まれです。[千葉市に生まれたんですね。引越しが何と8回。埼玉、青森、仙台、新潟…]―高校は東京なんですね。だから、高校に入るまで8回。[高校はどちらなんですか?]―大学が創価大学なので、創価高校。小平市にあるんですけど。(引越しが)8回というのは、千葉、埼玉、千葉、青森、仙台、新潟、仙台、青森で8回。親父が土木の技術者だったんです。当時は昭和40年代、50年代ですから、田中角栄総理の日本列島改造計画に則って…うちの親父は、「ダムを造ります」と言ったらその前に地質調査をする技術者だったので、「ダム出来る」と言ったら行く、「トンネルつくる」と言ったら行く。[日本全国行くわけですね]―東北エリアを中心に回っていました。45歳に至るまでせわしない人間なんですけど、ここでやっぱり形成されたんでしょうね。1年、2年ごとに引越しして。で、よく喋るんですよ、生まれた時から喋ってたらしいんですけど(笑)。[おうちでもそうなんですか?]―いや、これがね、うちでは意外と静かなんです。[芸人さんみたいですね、家では無口って]―そうそうそう、そうなんです。お笑い芸人とほぼ一緒。家では静かなんで、カミさんが「家では喋んないのに、何で」って。でも、家では話を聞いたほうがいいじゃないですか。[大学は創価大学。八王子ですね。八王子でも転々とされていた]―八王子市内は、東浅川町と中野上町と、子安町で最後。で、創価大学にいる最中にイギリスに留学を。21歳の時ですね。スコットランドのグラスゴー大学で1年間勉強しまして、そのあと日本に帰ってきて大学を卒業した後に、今度は北イングランドのブラッドフォード大学へ。うちのお袋は今だに「ブラックホール大学」と間違うんですけど(笑)。どうしてここを選んだかというと、「平和学」という変わった学問で、平和研究学部があって…[平和学の博士なんですか?]―はい、修士と博士、両方持っています。[どういう部門なんですか?初めて聞きました]―英語で言うと「PEACE  STUDIES」。平和学は、もともとヨーローッパで始まって、今はブラッドフォードだけじゃなくて、世界中で十数校は平和学を専門に教えている大学があります。基本的には、戦争をなくすにはどうするか、という学問でスタートしたんですが、今は、環境破壊とか人権問題とか、平和運動だとか核廃絶とか色んな側面がある。ブラッドフォードは学部なので、教授陣が20人ぐらいいてそれぞれ専門を持っていて。ここで私は修士を1年で取って博士号を4年で取って、29歳の時に平和学博士号の学位を持って帰国して、宮崎国際大学という、全部英語で授業をする大学の講師になりました。[博士号は英語で取られたんでしょう?]―もちろん。[それが凄いですよね]―いや、まあでも5年間かけてますからね。[ずっと日本なのに。(外国の血が)混じっているんですか?]―混じってないです。ただお袋が奄美の沖永良部島出身なんですよ。だから南方系なんです。お袋、今72歳で元気ですけど、アステカ民族のおばあちゃんみたいな顔してますよ。ものすごい彫り深いの。[宮崎国際大学で教えて、2001年に…]―はい、参議院議員に。[史上最年少だったんじゃないですか?]―史上最年少ではないですけど、当時男性の参議員で最年少でした。[どういう経緯で出られたんですか?]―私はこういうタイプですから、宮崎で大学の講師をしていたんですが、大学が休みになると、イラクとかに紛争解決の専門家として、NGOのアドバイザーで行っていたんです。初めてイラクに行った時は、国会議員じゃなかったから言い易いんですけど…シリアのダマスカスに飛行機で飛んで行って、クルド人系のゲリラの車のアレンジでシリア砂漠を2日間で越えて、チグリス・ユーフラテス川をゲリラが用意した船で渡って、密入国して。形式は密入国ですけど、人道支援とか平和構築の仕事で行きました。そういう現場をふまえて、私「紛争解決の理論と実践」というタイトルで授業を作ったんです。生徒たちに「紛争解決ってこうやるんだよ」と教えるためには、自分が紛争地に行かないと説得力がないので、それでイラクや東ティモールに行ったり。[今もその授業はあるんでしょうか?]―私が辞めたあとに継いだ先生はいたんですけど、今はやっているかどうかわからないです。[今年はああいう事件があったから…]―そう、ISILのね…。まさにそのシリアやイラクに私は行き出していて。そしたら日本の外務省から、国際会議でエキスパートとしてプレゼンテーションしてくれ、と言われて、東京にもしょっちゅう出張して仕事してたんですよ。そしたら、冬柴さん…もうお亡くなりになられましたが、冬柴さんの耳に入ったみたいで、突然携帯電話に電話がきまして、「君、若いけど参議院に出ないか」って。それで決断して。私が決断した背景にはイギリスも関係があって、私が留学中に、トニー・ブレアが43歳で総理になったんです。私は留学生で投票権がなかったですけど、衝撃だったんですね。[その若さでね]―いや、若さと言うか…僕が初めて留学した時は、まだサッチャーが辞めた頃。ジョン・メージャーという髪の毛がグレーの人が5年間総理をやって、ブレアが出てくるんですけど、43歳の総理大臣が登場しただけで、イギリスの社会全体が目に見えて変わっちゃったんです、半年ぐらいで。[どう変わったんですか?]―イギリスのロンドンといえども、当時はお洒落なカフェがひとつもなかったんです。トニー・ブレアさんは総理になるときに、「クール・ブリタニカ」という、言い得て妙の標語を立てた。「クール(恰好いい)」というのはアメリカ英語なんですよ。「ブリタニカ」はラテン語で「イギリス」という意味。何を意味しているかというと、最先端のおしゃれなセンスをイギリスに入れようよ、と。だから「クール」を使った。だけど、イギリスらしい伝統も大事にする。だからラテン語で「ブリタニカ」。「クール・ブリタニカ」というたった2単語なんだけど、すごい含蓄の深い標語を立てて。そしたら民間が呼応して、あっという間にロンドンに100軒以上のお洒落なカフェやレストランが出来たんです。[民間が建てわけでしょ?その言葉に触発されて]―そうです。彼は労働党じゃないですか。労働党の昔のイメージって、労働組合を背景に、弱者を大事にする、年金や福祉を重視する、でも華やかさがなかった。それが、トニー・ブレアさんが出てきたら、よく喋るし恰好いいんですよ、ファッショナブルで。で、43歳で総理になってからいきなり子供作っちゃうし、子供が生まれたと思ったら育休取るし、エー!? みたいな。[ニュー・エイジのイギリスだったんですね]―そう。彼はのちに、イラク戦争に参加した辺りで批判されるんですが…因みにこの本(「志力の政治」)にも写真が出ていますが、ブレアさんと3回ぐらい会ったことがあって。ブレアさんに「私が政治家になろうと決断したのは、あなたがいるお陰です」と言ったら「嬉しい」と言っていましたが、本当にそうなんです。若い総理大臣が出るだけで、こんなに国が変わっちゃうんだ、というのは、当時20代の多感な頃の私は衝撃を受けました。日本では、安倍さんが52歳で総理になったのが最年少で、40代は一人もいない。将来日本でも40代の総理大臣が出て、トニー・ブレアがイギリスを変えたようなことをやって欲しいな、という思いはありますよね。[やっぱり小泉進次郎さんですかね]―進次郎さんでしょうかねえ、今いる中で狙えるのは。[「クール・ブリタニカ」のように「アベノミクス」という言葉で、皆さんワッと湧きましたからね。そういうのって必要なんですね]―そうですね。言葉が一番上手かったのは、小泉(純一郎)さん。[小泉さんの時は政務官をやられてた]―そうですね。あの人、ゆっくり喋ってるし量は少ないんだけど、余計な事を言わずに鋭い。上手いですね。私はどっちかというとブワーーッ!と打って喋るから、マシンガン系なんですよ。彼は単発銃系ですから。[(幸せ度数年表に)戻りますけど、冬柴さんから出馬の要請があった]―はい、4年参議院をやって、外務大臣政務官をやらせていただいて。沖縄で開催した「太平洋・島サミット」で、(小泉)総理の補佐をやっていい、ということで。実は裏話をすると…。[どうぞ!]―私は、参議院の頃から沖縄が地元なんですね。太平洋・島サミットって、1回目は東京でやって2回目は宮崎でやったんです。私は「島サミットなんだから、沖縄でやるべきだ」と国会で主張して、誘致を…。そのときに、国会議員側で一番質問したりして頑張ったのが私だった。本当は、サミットの時の総理の席の横は官房副長官なんですよ。政務官はそんなに偉くないので。だけど私は黙っておれないタイプだったから、沖縄で島サミットがある1ヶ月ぐらい前に「これね、私が頑張って呼んだやつだから、出たいんだけど」と、うちの秘書官を通じて当時の総理官邸に…。うちの秘書官が「いや、ここは官房副長官の指定席ですから、絶対無理ですよ」って言ったんだけど、「言うだけ言ってみて」と。で、言ったら当時の官房副長官がものすごく度量の深い方で、「そういうことであれば、公明党の遠山政務官に譲ります」と譲って頂いて。[言ってみるもんですね~]―自民党の大物の政治家の中には、今でもそうだと思いますけど物凄く度量の大きい方がいらっしゃってね。[また、(そんなこと)言う人もいなかったと思いますよ]―それはね、私みたいにうるさい人は少ないですからね(笑)。で、政務官になりまして2期目通って、1年ぐらい経ったところで、太田代表に呼ばれて衆議院鞍替え、と。鞍替えして挑戦した2009年の選挙で、落選をしまして。[自民党もみんな落ちた2009年の時ですね]―そうですね。合計1年7ヶ月浪人をしました。ただ浪人中も、私こういう性格でしょ?同じ所にじっとしていられないんですよ。赤ちゃんの時も、1ヶ所にいる最長時間が37秒という記録をおふくろが残しているんで(笑)、浪人中も九州にある274市町村のうちの234市町村回ったんです。大分県の木こりの人達集めて、森林業の話を聞くとか、漁協に行くとか農協に行くとか会社訪問を100社やるとか。あとは街頭演説、地方議員と一緒に演説会をするとか。[それは党の支持じゃない?自らやっちゃうんですか?]―自ら行ったのもあるし、公明党の本部が「来てくれ」っていうのもあるし。とにかく動くのが好きなんで。まぐろと一緒ですね。まぐろって寝ないんですよ。生きてる間ずっと泳いでる。だから、私も多分死ねば喋るのやめると思います。[(笑)]―浪人中も274市町村のうち234市町村回って、沖縄はもともと41市町村を3周くらいしているので、九州・沖縄で知らない市町村はほとんどないです。[浪人中はモチベーションが下がっているから、なかなか行きづらい。嫌な思いもするかもしれないし]―嫌な思いはしましたよ。バッジ付けている時は社長・会長みんな出てきて「遠山先生、よくご来社下さいました」と言っていた同じ会社に、落ちてから行ったんですよ。そしたら1時間くらい待たされて「今会議中なんで」って帰されました。[それは公明党支持の会社なんですか?]―いや、支持団体とは関係ない、一般の会社です。別に公明党の議員って、公明・学会関係だけ回るわけじゃないので(苦笑)。全部回りますので、そのうちの1社ですけど、落ちたら手のひらを返すというか。また、落ちても変わらずにお付き合いして下さる方も、激励して下さる方応援して下さる方もいっぱいいらっしゃるので、私自身落ちて浪人を経験したのはすごい良い事でしたね。[すごい前向きですね(笑)]―地元をくまなく回れる、というのと、世の中の人情の裏表が痛切にわかるので。[でも私、落選されたのを新聞で見てショックでした。遠山さんも落ちるんだ、って]―あの時公明党は小選挙区全滅して、太田さんも北側さんも全部落ちましたんで。「一寸先は闇」というのはその通りだな、と。今後も色々あると思いますよ。[そして海外は何と47ヶ国、離島は100島]―はい、回りました。[すごいですね、議員になってからですか?]―ほぼ、議員になってからです。離島の話で今日しておきたいのは、日本って島国じゃないですか。マルコポーロの時代から、日本は極東の端っこにある小さな島国っていうイメージが強いですよね。ところがこれは全くの嘘で…お袋が沖永良部島で島の血が半分流れているので、14年前政治家になった時に、ライフワークで離島振興をやりたいと思って島を回り出すんですけど、色々勉強したらわかったことがあって。日本全国に、無人島と人が住んでいる有人島と合わせて、いくつあるかご存知ですか?これ当たったら、私逆立ちして階段昇って帰りますよ。[(笑)…200ぐらい?]―6,848島。本州とか九州とかを島として見て入れると、6,852島あるんです。[そんなになんですか!]―人が住んでいる島は、終戦直後は、正確な数字がないんですけど500ぐらいあった。でも今はどんどん減って無人島化が進んで、418島なんです。だから、私が100島回ってすごい、と言っても、418島の中の100ですからまだ半分もいっていない。私としては政治家を引退するまでに200は行きたいな、と。あともうひとつ強調したいのは、日本は陸地面積を全部足すと、約38万平方キロメートルで、これは世界192ヶ国でランキングが大体61位ぐらいなんです。日本という国は、陸上面積でいっても、小さすぎもなく大きすぎもない、ちょうど真ん中ぐらい。ところが、島をいっぱい持ってるでしょ?島というのは、領海が13海里あって、200海里が排他的経済水域。EEZと言って、日本が優先的に漁業資源とか海底資源とか使えるのが200海里なんですよ。6,852も島があるので、海域を全部合わせると、約442万平方キロメートル。これ、世界第6位なんです。第6位の海洋大国なので、全然極東の小さな島国じゃないんですよ。ただ、海を持っているということは、これから日本にとってどう化けるかわからない。時々新聞に出るじゃないですか。海底資源のメタンハイドレートとか海底油田とか、海底の天然ガス。今、あるのはわかってきたんです。けれども、海の底で掘削して、かなりの深さから海面まで持ってきて、精製出来る所に送って精製して売った時に、赤字になっちゃうんですね。法外に高い値段をつけないとペイしないから、あまりやらないんです。陸上から露天堀りで掘れるようなオイルが枯渇してきた場合は、お金をかけてでも石油が欲しいとなれば変えていく可能性は高いんで、その時日本は海底資源を利用するでしょう。もうひとつは、水素エネルギー。今年の後半から売りに出す水素自動車、あれはご存じの通り、水素と酸素を融合させることで生じるエネルギーを電気に変えて、それを燃料電池に貯めて走る。トヨタさんが開発したわけです。この車、凄いんですよ。水素と酸素をくっつけて走るわけでしょ?何が出てきます?[…水?]―そうです。あれは排気ガスの代わりに水を出して走るんです。だから後ろのマフラーはありません。私は、日本の技術力だったら、近い将来この水を浄化して車の運転席のほうに水を送って、車を運転しながら「コーヒーが飲みたいな」と思ったらボタンひとつでコーヒーが出てくる、みたいな…[なんか楽しげじゃないですか(笑)]―話は大分脱線しましたけど、要は、水素エネルギーがあちこち普及してきたら、海に囲まれた日本は水が大量にあるわけですから、これをエネルギーに換えて行くことが出来る。だから島嶼国である日本は島を大事にしなきゃいけないし、海というものを見直さなきゃいけない。ただね、今、島で暮らしている人達が大変なんです。その暮らしをどうやって支えるか。少子高齢化、過疎化、限界集落化…。だけど、今人が住んでいる島が無人島になれば、実は尖閣諸島よりも危ないんです。私は委員会で石破さんにはっきり言ったんですが、外国の不審船が来て、武装した漁民が上陸したら困る、という話をみんなするじゃないですか。安保法制でもグレーゾーンで出てくるんですけど、そんな話をニュースで聞くと、みんな尖閣を思い出すんです。でもそれはちょっと違う、と。だって想像してみてください。尖閣諸島に、電気もない、トイレもない、建物もないですよ。じゃあ仮に上陸してきて、どれぐらいそこで生き延びられますか?長期間居られないですよ。だけど、現在日本人が住んでいる島は、全部電気が入っていますから。で、建物もあるわけでしょ?そこが無人島化してしまったら、逆にそういうところが「外国船が来て気づかないうちに住んでました」となりやすいんです。だから私は、今小さな離島に住んで下さる方を、もう少し政府が支援すべきじゃないか、と。今放っておいたら、向こう30年の間に無人島化しそうな島が50島あるんです。それはどういう基準で選んでいるかというと、高齢化率が50%以上、人口が100人未満、小学校が廃校になった島。小学校がありませんから、若い夫婦は住みませんよね?ということは、理論上は今住んでいる島民の方々が一人ずつ亡くなっていって全員いなくなれば、無人島化するんです。それが約50ある。私が石破さんに言ったのは、こういう放っておいたら無人島化しそうな島がわかっているわけだから、政府の意思として放っておいて無人島化させるのか、それとも助けるのか、もうそろそろ判断しないといけませんよ、と。ロシアなんか、北方領土に人為的に移住しているんですよ。モスクワから北方領土に住んだ人は、モスクワと同じ仕事をしてたら給料が5年で3倍。年金も倍です。だから移り住むんです。言葉は悪いけど、僻地手当てというか、それを渡して人を住まわせている。日本はそれをしていないんです。離島には、そういう問題もある。[それは大変な問題ですね。国会議員でそれを言っている方は?]―少ないですが何人かいます。今、公明党には「離島振興対策本部」というのがあって、私が本部長で、事務局長が山本(博司)参議院議員です。この2人でブワーッと島を回りまくって、国会で質疑したり法改正をしたり予算を増額したりと頑張っているんですけど、まだちょっと不充分。[本当に心身ともに元気ですね。(幸せ度数年表のコーナー)最長ですよ、51分(笑)。話に引き込まれてしまって。私たちも離島に行かなくちゃ、と思ってしまいますね]―本当に行って下さい。一番のお勧めは、鹿児島県三島村の真ん中に、硫黄島というのがあるんです。「硫黄島からの手紙」とは違う硫黄島。今でも人が住んでいます、70人くらいかな。ここは映画のセットじゃないかと思うような島です。まずね、着く港が真っ赤っ赤。血の海みたい。鉄分が多いんです。目の前には、硫黄が噴き出している火山があって。ここは「俊寛」という歌舞伎の舞台で、あそこに俊寛は流されて帰ってこられなかった。だから平安時代からこの島は知られてて、「桃太郎」の鬼が島のモデルがここなんです。で、今も当時とほとんど変わらない。行ったら衝撃を受けますよ。皆さん是非!今日の番組は、私の、じゃなくて離島特集番組になってますね(笑)。

●最近の政治トピックス

[5分くらいでまとめましょう(笑)。自衛隊派遣で、自民党と公明党は意見が合わない]―いや(苦笑)、ほとんど合ってるんですよ。合ってないところが数ヶ所ある、と。[どういうところですか?自衛隊派遣の報告ですか?]―いやいや、例えば最近の、自民党と公明党で議論しているのは…自衛隊を海外に派遣する、というのはいくつかパターンがあるんですよ。ひとつは、自然災害で救助のために送る場合。ただこれは災害救援ですから、軍事的じゃないですよね。軍事的に送る場合のいくつかのパターンのひとつは、国連のPKO活動。今ここだけは送れます。PKOに送った場合は、自衛隊が自らPKO部隊の一員として色んな作業をする、そういう送り方です。それから、イラク特措法というのがあって、PKOでもなく国連の活動でもないけれども、大事な活動だということで人道復興支援でサマ―ワに送ったんですね。そして国連の活動の中で、PKOじゃないけど海外から軍隊を呼ぶ活動というのもあって、それを今回加えようとしています。それからもうひとつは、他国軍に対する後方支援。日本の自衛隊の海自艦は戦闘はしないけれども、戦闘に行く途中の船が寄って給油をしていく。これは補給活動という後方支援ですね。今、自民党と公明党で若干対立しているのは、武力の行使。すなわち戦争をしている他国の軍隊を、後ろからとはいえ支援する活動に自衛隊を送る場合は、非常に危険な場合が有り得るので、例外なく事前に国会で承認をとってから送るべきだ、と公明党は言っているんです。ところが自民党のほうは、基本的に事前承認でいいんだけど、例えば国会が閉会中だったり衆議院が解散中にいきなり自衛隊を送らなきゃいけない、となった時には、国会承認をとれない場合も有り得るよね、その時は事後に国会承認とる、でもいいじゃないか、とおっしゃっていて。[公明党としては、事後承認は有り得ない、と]―他のケースでは事後承認認めているんですよ、例えばPKOとか。だけどこっちは「武力行使」という、戦争目的の他国軍を後ろから支援する話なので。ただ自民党さんの言っている事も理解してないわけじゃないんですよ。[これからどうやって折衝していくんですか?]―今週だいぶ話し合ったんですけど、折り合いつかずに…。来週また話し合いをします。[どちらかが折れるしかないですよね?]―まあ折れるというか、色々知恵を出して、両方が合意できる案を見つける方法はまだあると思っていますから。交渉ごとというのは何回も繰り返しやって、法律だけじゃなくて、国会の答弁、附帯決議、閣議決定、政府統一見解、色んなやり方で考え方を表明することはできますので、それで歯止めをかけていくんです。自民党さんが譲るときもあれば公明党が譲るときもあるし、政党同士、お互い最後は合意形成をきちんとして。「国民の命を守るために、切れ目のない安全保障法制を作る」という点については公明党も自民党も合意しているわけですから、あとは各論のところでひとつひとつ詰めて行く、ということになると思います。[遠山議員は折衝上手、という感じですが、今まで一番難しかった案件は何ですか?]―一番難しかったのは、陸上自衛隊を送る前に、イラクのサマ―ワに神崎さんと私、公明党独自に行く、と決めて…与党だから、普通政府を使うじゃないですか。一切外務省も防衛省も使わずに、当時の冬柴幹事長と私でアメリカ大使館に乗り込んで行って。私が中東情勢を多少知っているので、アメリカ大使館の責任者に「神崎代表と遠山参議院議員が来週にでも行きたい」と。イラク戦争が終わった直後で危ないので、当時イラクに入るためには、米軍の軍用機で入るしか手がなかったのでお願いしたんです。アメリカ側はひっくり返っちゃって。何故かと言えば、普通はVIPルールというのがあって、紛争地に近い状態のイラクに行くときは、1ヶ月以上前に「行きます」と伝えなければならない。ところが我々は、行く、と決めて10日後にサマ―ワに入ったんです。[それは無謀ですね]―その交渉をやれと言われたのでやったんですけど…。行く、と決めてアメリカにお願いして、徐々にバレていくわけですよ。総理官邸も「駄目だ」と、自民党も「駄目だ」と、外務省も防衛省も一切協力しない、というところからスタートして、最後はアメリカ政府の代弁者を名乗る人から直接電話がかかってきて。CIAみたいな感じの人からも電話がかかってきて「行くのをやめてくれ」と。私は「イラクに入れなくても、アメリカ政府の責任にしないので。自分たちの責任で行くから」と言ってクウェートに飛んで行って、クウェートで4日間、我々は足止めをくらったんです。その間に冬柴さんが東京で大活躍で、総理官邸、防衛事務次官の部屋、外務事務次官の部屋に「協力しろ」と怒鳴りこんで。[怒鳴りこんだんですか?]―そりゃそうですよ、協力しないんですから、与党なのに。で、協力を取り付けてそこからだいぶ変わって…クウェートに入って4日目に、米軍の秘密基地から飛びまして。あの時は大変でした。だからもう1回あのオペレーションをやれ、と言われたら出来ないですね。若かったから無謀だった。上から言われて「やるしかない」と。当時外務省の総合外交政策局長が僕の部屋に来て「絶対行ったら駄目です」と言って、新聞も知らないような、色んな要人がイラクで死んだ話とか持ってきて説得されて。私の自宅に深夜1時まで電話ですから、やめろやめろって。最後はだから電話線を抜きました。[その時結婚されてたんですか?]―してました。[奥様の反対はなかった?]―女房は、私が国会議員に出るところからブレずに反対ですから。[…ブレずに?(笑)]―そもそも私の意見を聞かずに(国会議員に)なって、今さら何大変だとか言ってんの?みたいな感じになるじゃないですか。私は参考にしたつもりだったんですけど、彼女的には完無視されたと思っていますから(笑)。

●今だから言える、あの日のあの出来事

―国際会議があって、ヨルダンに外務大臣政務官で行ったんです。アブドラ二世という国王陛下がいるんですが、彼は国王なのに気さくで話しやすい方なんです。僕は外務省のナンバー3で麻生さんの代わりに行っているわけだから、本当は国王陛下に会えないんですよ。ところがこの国王陛下が日本が大好きで、あとでわかったんですけど…国王ですから、日本に勝手に来ちゃいけないわけですよ。日本政府の招待とか天皇陛下の招待で来るのが普通じゃないですか。あの方はですね、ある日アメリカ合衆国からヨルダンに帰る時に、日本の上を通ったら「あ、ジャパンだ。寄れ」みたいな。いきなりアポなしで来たらしいんですよ。何のために来たか知ってます?[ディズニーランド]―違う。六本木の「瀬里奈」っていう鉄板焼きが好きで。[本当ですか !?]―ヨルダンの国王陛下だから世界中の美味しいもの食ってるはずなんだけど、日本の鉄板焼きは世界で一番美味い、と。多分それを食うためだけに、いきなり来て。だから日本政府的に大迷惑な王様なんですけど(笑)、でもいい人なんですよ。それで、国際会議でヨルダンに来てる(人物の)リストを見て、国王陛下が「あ、ジャパンから誰か来てる。遠山?知らねえな。でもいいや、いいから呼べ」と言って。で、会ったんですよ。当時イラクのサマ―ワの問題が色々あったんで、「私もイラクに行ったことがあります」という話をしていたら、多分私のことを気に入ったんだと思うんですね。最後に国王陛下が「君はヨルダンにどれぐらいいるの?」と言うから、「あと2日間くらいいます」と。「じゃあヨルダンで会いたい人がいたら、1人名前を言いなさい。誰でもアレンジします」と、いきなりその場で言われたんですよ。咄嗟だったから、ヨルダンの芸能人も知らないし(笑)。どうしようかと思ったんだけど、実は私映画が好きで、スパイ映画にも結構詳しいので…実はヨルダンには、GID(General Intelligence  Department)という情報機関があるんですよ。それは知っていたから「GIDの長官に会いたい」と、ダメ元で言ったんです。そしたら「そんなんでいいの?そんなんだったらOK」って。国王陛下のアレンジで、GIDの長官に会わせてもらったんです。これは面白かった。[本当に来たんですか?]―いえ、長官の本部に行ったんです。ヨルダン軍の軍事基地の秘密のロケーションなので、車でジグザグ蛇行して、どうやって行ったかわからないような迷路を通って。長官のいる所は立派なイギリス風の洋館で、長官は口髭生やして物凄いブリティッシュ・イングリッシュで、スーツもストライプ。どうぞそのままハリウッド映画に出て下さい、というような人だった。で、当時自衛隊がサマ―ワに入ったあとだったので、「サマ―ワの情報が欲しい」と。すごい詳しかったですよ。 ICレコーダーもメモ取りも駄目と言われたので、受験勉強以来ですね、脳に書く…これは高校時代の私の恩師に「人間頑張れば、脳に物が書ける」と言って教えられたことがあったので、それを思い出して、話を聞きながら脳に書いた。日本の政治家や役人がわからない世界があって、それを垣間見たような気がしましたね。[凄いですね、それをリアルに体験した]―国王陛下が(日本の)鉄板焼きが好きだったから会えたんで、鉄板焼き屋に感謝したほうがいいですね。[「瀬里奈」にね(笑)]―はい、感謝してます。今度行って食べてきますよ。